正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十二

 岩波文庫153ページ「あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子(しゅうじ)となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり」

 (法性、大宇宙の真理を頭の中で考えてそれに囚われてしまう=法性の縛をしらないということは)憐れなことではあるけれども、無明縛が重なっていることは知っているので、これは真実を知りたい、大宇宙の真理を知りたいというきっかけ(種子)にはなるだろう。行仏、行動を通じて大宇宙の真理を体得するということは、これまでもここに書いたような頭の中の考えに囚われることはなかったのである。

 頭の中の偏った凝り固まった偏狭な考えに囚われて「怪しからん怪しからん」と叫んでも何もならない。自分と異なる考えの人をヒステリックに執拗に攻撃しても何も生まれない。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となり、現実の世界・事実を理解して、実際に具体的にどのような行動ができるかが重要だ。

 世界の軍事費は数字をとるようになってから最高の伸び率だそうだ。以前に何回か書いたけれど、今の人類は国家という枠組みを維持するためには軍事力に頼らざるを得ないレベルだ。日本だって、憲法を解釈して軍隊を持っている。「自衛隊」とか言ってるけど、外国の人を連れてきて自衛隊の演習を見せて「これは軍隊ではない」などと言えば「あなた正気ですか?」と言われるだろう。

 軍事力というのは、相手方を殺し、破壊することで自国の主張を受け入れさせるもの以外のなにものでもないだろう。そのようなものに依存しなければいけない人類のレベルには暗澹とする。しかし、現実・事実はそうなのだ。

 本来人類は無用な殺生はできないものなのだ。無用なというのは、他の生命を犠牲にしなければ人間は生きられないからだ。ベジタリアンとか言っても、植物だって生命体であり、植物なら食ってしまってもまったく問題ないと考えるなら傲慢だと思う。「生きなきゃならないので最低限他の生命を犠牲にしなければならない」と肝に銘じるべきだと思う。

 話は逸れたが、本来無用な殺生はできないはずの人類が軍事力を強化している。この問題は人類全体が大宇宙の真理、本来の面目に立ち還る以外には解決しない。そのためには坐禅が不可欠だ。

 ただ、そういう世界には当分なりそうもない。となれば、当面は戦争は回避する智慧をだすしかない。思想や宗教の違いで戦争することもあるかもしれないけど、結局のところは経済的な利益、国益を巡る争いだと思っている。そうすると、国家間の利益の分配で手が打てるか、それしか解決法は無いように思う。このような具体的方法・行動でしか解決しないと思う。「軍事力怪しからん!」「平和!」と叫ぶことに意味が無いとは言わないが、実際に軍事費は増えているし、戦闘は起こっている。このことは忘れてはいけないと思う。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十一

 岩波文庫152、153ページ「教家経師論師(きょうけきょうじろんじ)等の仏道を遠聞(おんもん)せる、なほしいはく、「即於法性(そくをほっしょう)、起法性見(きほっしょうけん)、即是無明(そくぜむみょう)」この教家のいはくは、法性に法性の見(けん)おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず」

 頭の中の理屈で仏教を学ぼうとする人たち、経典により仏教を学ぼうとする人たち、議論を通じて仏教を学ぼうとする人たち、この人たちは仏道を遠く離れたところから聞いているのであるが、それでも彼らは「法性に即して法性の見が起こる、それは無明である(宇宙の本質は何かという考えを起こして、それについて色々な見方が起こる、それは迷いである(無明))」(しかしながら)この言葉は法性を理屈で考えることで法性についての見解が起こるということについて、法性(という理屈)に縛られているということを言っておらず、さらに無明という理屈に縛られていることをその上に重ねていて、法性に縛られるということがあることを知らないのである。

 頭の中の理屈・言葉に縛られ現実に疎いというのは、今の世の中しばしば見られると思っている。知識とか論理を重んじすぎではなかろうか。学問は重要だが、学問という閉じた世界で成績・業績が優秀だからといって人間として優れているかは関係ない。

 底の浅い言葉は長くはもたない。現実が答えを出す。コロナへの対応でも、政治家の「言葉」にみんな辟易としてるんではないかな。皇室の結婚を巡る話でも論理や理屈ではなかろうと感じる。問題は日々の瞬間瞬間の行動だ。

 「言葉」を次々と重ねていくと、どんどん強い調子にせざるを得ない。聞いている側は結果が伴わなければどんどん「しらける」だけだ。こうして「言葉」は力を失っていく。

 現実の泥沼を七転八倒して行動する、他人が評価しようがしまいが、問題は大宇宙の真理に即しているかどうかだ。「成功」=「経済的な豊かさ」なんてことでは、あまりにも浅薄であり、大袈裟ではなく人類を危機に陥れるのではなかろうか。米中の対立なんてその典型ではないか。

 人間が生きるとは何か、それは坐禅しない限り分からない。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十

 岩波文庫152ページ「縛々綿々として樹倒藤枯(じゅとうとうこ)にあらず。いたづらに仏辺の窠窟(かくつ)に活計(かっけ)せるのみなり。法身(ほっしん)のやまふをしらず、報身(ほうじん)の窮(きゅう)をしらず」

 頭の中の考えに縛られることが綿々と続き、樹木が倒れればそれに絡みついて生きている藤も枯れる、つまり物事の核心・真実に至らないのである。無駄に仏教の周辺にある穴蔵で暮らしているだけなのである。本来この身に備わっている法に気付かず病気のような状態になっていることをしらず、自分自身の身が窮していることを知らないのである。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となるそのことをせず、ただ頭の中であーでもないこーでもないと考え、その考えに囚われ、真実・根本が分からず、訳の分からない正気ではないことをしたり、自分自身を窮地に追い込んでしまっているなんてことは、世の中にいくらでもあると思っている。

 コロナだって、緊急事態宣言出した→少し感染者減った→宣言解除→感染者増→宣言出す、この繰り返し。ワクチン接種の本格化はこれから、治療薬も決定的なものはないなら増加を防ぐしかないのだろう。この見通しはどうなっているのか私は知らない。だから「宣言を出す」なんて威張って(行ってる本人は威張ってるつもりはないのだろうけどそう見える)言うようなことじゃなかろうと感じる。

 また、ここまで感染が広がっていれば保菌者はたくさんいると考えるのが普通じゃないのかな。PCR検査でも1回目は陰性で、2回目で陽性になるケースも結構あるというし。だから、いつ誰が発症したって不思議じゃないんかなかろうか。やれることは、リスクの高い行為をしないくらいだろう。

 頭の中で「コロナコロナ」「緊急事態緊急事態」とおろおろしたってしょうがない。

 要は行動が重要ということ。コロナの終息のための行動計画が見えないのは、やはりよくないと思う。

 坐禅してたってコロナになる可能性はある。坐禅は超能力じゃないんだから。ただ、現実をしっかりと受け止めて、どう行動したら良いかが直観として分かるだけだ。

 最近の報道(全面的に信じていいかは疑うけど)を見ると、日本はアメリカと同調して対中国の姿勢を変化させてきているように見える。これは中々大変だ。経済の中国依存は相当あるしね。アメリカも好きではないけど、最近の中国の振舞いは正直いかがなものかと思う。最終的にはどのような世界を望むのか一人一人が判断しなきゃならない。

 正しい判断するためには坐禅するしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その九

 岩波文庫152ページ「菩提をすなはち菩提と見解(けんげ)せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛(むじょうじばく)なり」

 自分の頭の中で真実・真理(菩提)を真実・真理だと理解する、信じるのは、普通のことだ。誰がこのことを邪見だというなどと考えるだろうか。このような状態は、縄が無いのに自分自身を縛り付け身動きできないようにしているのだ。

 頭の中の考えに凝り固まり、現実に対し有効な適切なことができなくなるというのは、よくあることだ。「自分は正しい」と無邪気に信じている人ってたくさんいると思う。自分で自分のことを正しいと信じていることは本人は得意満面かもしれないが、本当は無縄自縛で正しいことができなくなってしまっていることが多いと思う。

 コロナで緊急事態宣言をまた出すそうな。本当に緊急事態宣言って有効なのかな?「緊急事態宣言を出す」という観念に縛られてしまって、本質的な事実が分かっていないんじゃないかと不安になる。ま、分かっていらっしゃるんでしょうけど。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって、ちっぽけな脳味噌から開放されないと駄目だと思うんですがねえ。

 

 

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八

 岩波文庫152ページ「一念を経歴(きょうりゃく)するに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解(さくげ)す」

 一瞬の短い期間を過ごしても頭の中の考えに因えられ、そこから解放される時期を逃し、ただ無駄に誤った考えから抜け出せずにいる。

 一つの考えに凝り固まった人に「あなた、それ間違ってますよ」と言っても、まず無駄。逆に食ってかかられたりする。政治家とかメディアとか権力者が相手なら、どんな意地悪・いじめを受けるかわからない。恐ろしい。凝り固まればオウム真理教のように殺人が正しいことにもなる。

 歴史を見ても人類というのは、実に容易に偏狭な考えに凝り固まり、考えの違う人たちと戦い、殺しあってきたということが分かる。

 現在だって、その点少しも進歩などしていないのではないだろうか。訳の分からない考えに固執し、現実を客観的に見られず、意見の異なる人間を攻撃している。個人レベルでも、国家レベルでも変わらない。中国がサイバー攻撃を仕掛けてきたそうな。日米が色々打ち出しているから、当然反撃するだろう。今の人類のレベルでは仕方ないが、本当に人類が目指すべきは、中国とかアメリカとかいう国家レベルの問題ではないだろう。大宇宙の真理に到達すること以外にないと思うが、かなり長い間いがみ合うんだろう。戦争とか馬鹿な選択にならなきゃいいけど。けど、現実を見ているとねえ。まさに「なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解(さくげ)す」だ。

 世界の人間一人一人が坐禅し大宇宙の真理と一体となるしかないけど、そんな風にはなりそうもないなあ。結局戦って、勝った方の主張が通るという方法しかとれないのかなあ。愚かだけどこれが現実だ。

 だけど諦めずに坐禅続けます。坐禅が広まらないかなあ。

 

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七

 岩波文庫152ページ「「仏縛」といふは、菩提を菩提と知見解会(げえ)する、即知見(そくちけん)、即解会(そくげえ)に即縛るせられぬるなり」

 「仏縛」というのは真実・真理(菩提)を頭の中で観念的・抽象的に理解しようとするために、頭の中の世界に縛られてしまい、真実・真理に到達できないのである。

 知識は必要だ。習得するために努力しなければいけない。しかし問題はその知識を瞬間瞬間の行動に活かせるかだ。あるいは、得た知識・情報が正しいのか瞬間に判断できるかだ。

 凝り固まった偏狭な知識に縛られ、現実が見えずおかしな言動をする人が多いなあと思っている。政治家は与野党ともそんな人ばかりに見える。まあ、メディアも似たようなものだからそこからの情報で判断するのは危険だけれど。

 真実・真理は坐禅した身心ならば瞬間に分かると信じている。そうじゃなければ、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間生きていくことはできない。直観だ。

 頭でっかちになって、自分の頭に入っているものを盲信してはいけない。でも、そういう人には通じないんだよね。

 大宇宙の真理が絶対だ。しかし、現実の中でどう行動するか、大宇宙の真理を実現するために一時はおとなしくしておくのか、リスクを取ってでも動くのか。これは凝り固まった偏狭な知識では無理。ただ騒ぐだけで現実の問題は解決しない。

 

 

 

 坐禅しかない。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六

 岩波文庫152ページ「行仏にあらざれば、仏縛法縛(ぶつばくほうばく)いまだ解脱(げだつ)せず、仏魔法魔に党類(とうるい)せらるゝなり」

 坐禅した身心で大宇宙(仏)と一体となって行動するということでないならば、仏とは何か法とは何かを頭の中で観念的・抽象的に考え、それに囚われ、引きずり回せれて縫いけ出すことができなくなり、釈尊の教えではない魔物の類となってしまうのである。

 今、皇室の結婚を巡って28ページの文書がどうのこうのと騒いでいる。本当のところは分からないけど、何だか頭の中の観念に囚われちゃっている印象はある。ただメディアの情報しか知らないので、本当のところはわからない。

 書店に行って仏教関係の書棚を見るとたくさんの本が並んでいる。仏教の経典に至っては膨大だ。これらを読まなきゃ仏教が分からないということでは、仏教は人を救えない。だから、道元禅師は正法眼蔵をお書きになり、坐禅すればよいと説かれた。

 今の風潮は観念論・抽象論を振り回す人が目立つ。現実はどうなっていて、だからこのように行動するのだ、というような地に足の着いた話をあまり聞かないように思う。

 言葉だけなら何とでも言える。けど真実に従った行動することは難しい。坐禅しない限り無理だ。

 以前は「国家百年の計」という言葉を聞いたように思う。でも今は目先で起こったことにぎゃあぎゃあ騒ぐだけで、この国をどうしたいのか、世界の中で日本をどうしたいのかさっぱりわからない。米中の対立は先鋭化するような気はするし、ロシアだってじっとはしていないだろう。EUだって権益を守り・拡大しようとするだろう。日本はどのような立場でどうしたいのだろう。

 これは一人一人が真実・真理は何かを坐禅を通じて体得し、毎日の生活の瞬間瞬間を行動していくしかない。国政はその一人一人の行動によって決まる。