正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十六

 岩波文庫186、187ページ「しかあればすなはち、この明珠の有如無始(うにょむし)は無端(むたん)なり。尽十方世界一顆明珠なり、両顆三顆といはず。全身これ一隻(いっしゃく)の正法眼(しょうぼうげん)なり、全身これ真実体(しんじつたい)なり、全身これ一句なり、全身これ光明(こうみょう)なり、全身これ全心なり。全身のとき、全身の罣礙(けいげ)なし。円陀陀地(えんだだち)なり、転轆轆(てんろくろく)なり。明珠の功徳(くどく)かくのごとく見成(げんじょう)なるゆゑに、いまの見色聞声(けんしきもんしょう)の観音弥勒(かんのんみろく)あり、現身説法(げんしんせっぽう)の古仏新仏(こぶつしんぶつ)あり。」

 そういうことであるから、この輝く珠である大宇宙はありのままであってここから始まったというようにとらえられるものではない、無限の永遠のものである。この大宇宙全体は一つの輝く珠である。二つ、三つとは言わない。大宇宙全体、そして大宇宙と一体であるこの身体は大宇宙の真理を見ることが出来る眼であり、大宇宙全体、そして大宇宙と一体であるこの身体はまさに大宇宙の真理そのものであり、大宇宙全体、そして大宇宙と一体であるこの身体は真実を伝える言葉であり、大宇宙全体、そして大宇宙と一体であるこの身体は明るく輝いているのである。大宇宙全体、そして大宇宙と一体であるこの身体は全身としか言いようがない。このとき何も妨げになるものはない。丸いものはこ自然にころころ転がり、車輪はごろごろ回るようなものである。この光輝く大宇宙の真理ははっきりと現れているのであるから、今この瞬間、今この現実の中で聞いたり見たりすることが、観世音菩薩・弥勒菩薩が姿を現すことなのであり、現実に現れた過去現在の大宇宙の真理を体得した人々が法を説くことそのものなのである。

 大宇宙は厳然として永遠のものとして光り輝いて存在している。本来その一部である人間も大宇宙と同じ存在なのだ。今この瞬間を一生懸命に生きることそのものが大宇宙の真理なのである。今生きているこの瞬間が真理なのだ。本来このことは極めて自然なことなのだ。それは坐禅をすればその瞬間にわかる。

 けれど人間は利得、権益、地位など諸々の思惑で本来の輝かしい姿を見失ってしまっている。

 弾道ミサイルをやたらと発射してみたり、軍事力を増強してみたり、総裁の座を巡って血眼になったり、実に健気に蠢いている。

 このことは現実であるから、受け入れなきゃいけない。受け入れつつではどうするのか考え、行動しなければいけない。現実に今この瞬間にどうするのか。

 そのためには坐禅するしかない。今の現実の世の中がすぐに変わる筈がない。人類のレベルが急に上がるなんてことは絶対にない。坐禅して、今この瞬間の日常生活をきちんと一生懸命に生きていく中にしか解決策は生まれない。すぐに世の中が変わるみたいなことを言う人間は詐欺師か、あるいはちょっと危ない人です。

 坐禅して正気に戻りましょう。坐禅して本来の面目を取り戻しましょう。それができなければ何も始まらない。

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十五

 岩波文庫186ページ「「玄沙曰、知、汝向黒山鬼窟裏作活計」。しるべし、日面月面(にちめんがちめん)は往古(おうこ)よりいまだ不換(ふかん)なり。日面は日面とともに共出(ぐしゅつ)す、月面は月面とともに共出するゆゑに、若六月道正是時、不可道我姓熱(にゃくろくがつどうしょうぜじ、ふかどうがしょうねつ、若し六月に正(まさ)に是れ時(とき)と道(い)ふも、我が姓(しょう)は熱と道(い)ふべからず)なり。」

 玄沙師備禅師が言った「なるほど、お前さんは暗い山の鬼が棲む洞穴で暮らしているのだ」。知らなければならない、太陽と月は遥か昔から太陽は太陽であり、月は月であって入れ換わることはない。太陽は太陽として昇るのであり、月は月として昇るのである。そういうことであるから、もし陰暦の6月(真夏)に「私はまさにこの時に生きている」と言うことはできるけれど「私の本質は熱である(今は暑い)」ということはできないということなのである。

 人間は唯一無二の存在だ。太陽は太陽であり、月は月であるように。鬼の棲家であろうがどこであろうが今この瞬間を生きるしかない。自分自身で生きるしかない。真夏で暑かろうがどうであろうが生きているのはこの瞬間なのであってそこを生きるしかない。暑い寒いなどと言っている暇はない。

 私は楽に生きてきたことはないし楽していきたいとも思わない。というか、楽だとか楽ではないとか選んでいる暇などない。今この瞬間を生きるだけだ。

 この瞬間が地獄のように苦しいとしても今はそういう時なのだから苦しさの中で生きるしかない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動している限り、苦しいとかなんだとかいう必要はない。その行動は正しいのだ。その正しさは人間のちっぽけな脳味噌が思いつく基準などとは関係ない。

 中国が思想統制を強めているように見える。そもそも思想というのは個々人が自ら生きていく中で選び取るものなので国家がそれを押し付けるというのは自然の摂理に反するものだとしか思えない。

 恒大集団とやらが破綻する可能性が高いそうな。共産主義国家で経済活動をする集団が巨大になること自体が不思議だと思うし、それが破綻するとして一般的な経済原則に中国という国が則った対応をするとは思えない。

 中国は軍事力を強化している。アメリカもオーカスなど色々手を打っている。当面激しい戦いが続くのだろう。

 日本はどうするのか。現実を正確に把握しての議論がなされているだろうか。

 国家論は重要だが、結局のところ人間一人一人が「真実とは何か。そして自分はどう生きるべきか」を考えなければ話にならない。

 真実はある。真理はある。紆余曲折はあるだろうが、最後は大宇宙の真理に従った結論が出る。

 だから坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することが唯一無二の方法なのだ。

 坐禅しましょう。

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十四

 岩波文庫185、186ページ「古仏為汝説(こぶついにょせつ)するには異類中行(いるいちゅうぎょう)なり。しばらく廻光返照(ういこうへんしょう)すべし、幾箇枚(きこまい)の用会作麼(ようういそも)かある。試道(しどう)するには、乳餅(しゅうひん)七枚、菜餅(さいひん)五枚なりといへども、湘之南(しょうなんのみなみ)、潭之北(たんのきた)の教行(きょうぎょう)なり。

 大宇宙の真理と一体となった仏と言われた方々がその教えを説く時には、独立独歩で世界の中に向かっていくのである。とりあえず自分自身を静かに光で照らすように顧みてみるとよい。いくつもの「理解してどうするのか。理解したからと言ってそれがなにか」ということがあるだろう。試しに言ってみれば、牛乳から作った餅7枚、菜っ葉から作った餅5枚というごくありふれた日常のものであるけれど、それこそが湘水という河の南、潭水という河の北(どちらも同じ場所を指している)にあるという黄金の国のように素晴らしい場所における教えであり、修行なのである。

 異類中行について私は、「自分は自分としてこの世界の中で生きていかねばならない」というようなことだと思っている。現実世界の中でどうやって生きていくか。瞬間瞬間行動して行かなければならない。自分が生きていくのだ。

 廻光返照は好きな言葉だ。自分に立ち還れ、本来大宇宙と同じ存在、真実である自分というものに立ち還れということだと思っている。これは頭の中で考えたところで立ち還れるものではない。坐禅するしかない。というか坐禅すればその瞬間「廻光返照」となる。

 色々理屈は言うことが出来る。頭の中で考えをいじくり回すことはできる。しかし、それですべてうまくいくという訳にはいかない。むしろ、理屈や頭の中の考えに囚われ引きずり回されてしまっていることの方が多いと思っている。今の世の中、そんなことばかりじゃないだろうか。

 そうではなく、目の前の現実、日常生活そこにこそ、いやそこにのみ真実はある。「湘之南、潭之北」と言ってみても、それは今この場所でしかない。ここにこそ黄金の国=真実があるのだ。

 米英豪でオークスとかいう連合を組むそうな。対中国の戦略とのこと。中国はTPP参加を表明したり、台湾も表明したり。フランスが潜水艦の契約をオーストラリアが反故にしたと怒っているらしい。

 必死に権益を守るために戦っている。あの手この手で戦っている。人類の今のレベルでは戦うしか無かろうと思う。どの国も自分たちが正しいと思っているし、権益は何としても守りたい。戦うしかないだろう。

 しかし、究極的に人間は何のために生きているのか。私は坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動することのみが人間の生きるということだと思っている。

 世界平和のため、戦争をなくすため、平等な世界を作るため、いずれも重要なことだ。しかし、それらを実現するためには、言葉や頭の中の考えだけでは不可能だ。行動するにしても言葉や頭の中の考えに振り回され、結局おかしなことをしてしまうことがほとんどのように見える。

 重要な目標を達成するためには、坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動するしかない。

 坐禅しましょう。

 

 

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十三

 岩波文庫185ページ「僧曰、尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(ようういそも)。いふべし騎賊馬逐賊(きぞくばちくぞく。賊馬(ぞくば)に騎(のっ)て賊(ぞく)を逐(お)ふ)なり。」

 僧が言った「大宇宙は輝く一つの珠です。理解してどうしようというのですか」。この言葉は、盗賊が乗ってきた馬に乗って盗賊を追いかけるような力量のあるものと言える。

 言葉、知識偏重の世の中だ。言葉で言い繕うことで物事が解決するかのように思っているのではないかとさえ思える。

 問題は目の前の現実だ。目の前の事実に対しどうするかだ。

 今は目の前の事実さえ見えなくなっているんじゃなかろうか。

 言葉で散々言い立て、陰に陽に圧力をかける。事実を言葉で変えようとすることが目に付く。

 言葉でどうこうではない。今現実のこの瞬間に何をするかだ。今この瞬間の現実がちゃんとわかっているかだ。

 テレビ番組でコメンテーターだかの人がある政党を批判したら、その番組が打ち切り危機だそうだ。

 その政党が過去にやったことが重要なのであって、綱領に書いて有るとか無いとかは本質じゃなかろうと思うけど。書いてないけど本当はそう思っているという方が怖いんじゃないのかな。

 いずれにしろ政党という形を取れば何らかの言葉に縛られる。これは仕方なかろう。けれど言葉に振り回されない、最後には事実に基づいて大宇宙の真理に基づいて行動できないといけない。そう思っている。

 正気に戻りましょう。テレビが公平中立で正確な情報を伝えていると信じている人がいるとしたら、その人は相当危ない。正気に戻してあげないといけない。戻らないだろうけど。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となって行動する。これしか人類を救う方法はないと信じている。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十二

 岩波文庫185ページ「「玄沙来日問其、尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会」。これは道取す、昨日説定法(さくじつせつじょうほう)なる、今日二枚をかりて出気(すいき)す。今日不定法(こんにちせつふじょほう)なり、推倒昨日点頭笑(すいとうさくじつてんとうしょう)なり。」

 玄沙師備禅師は次の日その僧に質問して言う「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会」この世界全体は光り輝く一つの珠だ、どのように理解したか。これは言っているのである、昨日は定法を言い、今日は唇の間から不定法を言う。そして昨日言ったことをひっくり返して笑いながら頷いているのだ。 

 今この瞬間にどう行動するかしかない。今この瞬間の現実にどう対処するか。生きるとはその繰り返しだと思っている。だから、この瞬間この瞬間に、「これは定法だ」「これは不定法だ」などと言っている暇はない。どう理解するもくそもない。この瞬間に行動するのみである。

 大宇宙は輝く珠のように素晴らしい。それが現実であり、事実だ。定法だ不定法だと頭の中の観念でいじくって何の意味があるのか。

 情報が溢れている。自民党の総裁選の情報が随分と多いようだ。しかし何だか重さを感じない。アイドルの人気投票みたいだ。

 現実に根差した雄大な世界観が感じられない。ほんとはあるんだろうか?

 野党も惨憺たるありさまだ。世界観の見えなさは自民党を凌駕している。票を集めるための政策協定なんて、あまりにも近視眼的で将来に期待を生むものとは到底思えない。

 何度も書くが、人間は大宇宙そのものなのだ。本来大宇宙と同じ大きさを持った雄大で偉大なものなのだ。それが何故このような体たらくになるのか。

 ちっぽけな脳味噌の中に浮かぶ妄想を真実と思い込んでいるからだ。

 坐禅して本来の姿を取り戻してほしいけど、無理だろうなあ。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十一

 岩波文庫185ページ「いはゆるの道得(どうて)を道取するに、玄沙の道(どう)は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼(ようういそも)」なり。この道取は、仏は仏に嗣(し)し、祖は祖に嗣し、玄沙は玄沙に嗣する道得なり。嗣せざらんと回避(ういひ)せんに、回避のところなかるべきにあらざれども、しばらく灼然回避(しゃくねんういひ)するも、道取生(どうしゅさん)あるは現前(げんぜん)の蓋時節(がいじせつ)なり。」

 大宇宙の真理を言い表す言葉を言ってみるとして、玄沙師備禅師の言葉は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」である。「十方世界はことごとく一粒の輝く美しい珠である、そのことを理解してどうだというのか」である。この言葉は仏から仏に伝えられ、仏祖から仏祖に伝えられ、玄沙師備禅師から玄沙師備禅師に伝えられた言葉である。受け取りたくないと逃げ回って、逃げ回ることが出来ないことはないかもしれないが、必死に逃げ回ったとしてもこの言葉があるという事実はこの目の前の現実のすべての時間を覆いつくているのだ。

 今この瞬間を自分自身として一生懸命に生きるしかない。真実は仏は仏として、祖は祖として玄沙師備禅師は玄沙師備禅師として、それぞれが自分自身として受け止め行動して行くしかない。そのことは逃れることはできない。自分自身から逃れられるわけがない。今この瞬間はすべての時間を包含しているのだ。

 仏教は自分自身がどのように行動して行けばよいかを教えるものだと思っている。他人に依存することはできない。

 自民党の総裁選で推薦人とか支持者とか言っている。多くの支持を集めなければ総裁にはなれないのだから仕方がないけれども、結局はその人自身がどう行動するかしかない、その人自身の力量だけしか頼るものはない。今は支持者だったとしてもこの後どうなるか知れたものではない。

 占い者だとか霊能者だとかに影響を受けておかしくなってしまう人がいるようだ。漠然とした不安より、怪しげでもはっきり言ってもらった方が安心するのかもしれない。

 しかし、他に依存している限り安定することはできない。そこが占い者や霊能者の付け目なのだろう。

 「椅止するものは動揺す」という言葉がある。何かに寄りかかっていると、寄りかかっていたものが動いたら自分も動いてしまう。独立して立っていなければ危険だ。

 独立して立つ。それは坐禅して大宇宙と一体となる、大宇宙の真理と一体となって行動することだ。本来の自分に立ち返り、大宇宙の真理に立ち返ることが、唯一安定する方法だ。

 坐禅しましょう。

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 一顆明珠その十

 岩波文庫184、185ページ「「学人如何会得(がくにんしゅおういて)」。この道取は、たとひ僧の弄業識(ろうごっしき)に相似(そうじ)せりとも、大用現(だいようげん)、是大軌則(ぜたいきそく)なり。すすみて一尺水(いっしゃくすい)、一尺波(いっしゃくは)を突兀(とつごつ)ならしむべし。いはゆる一丈珠(いちじょうしゅ)、一丈明(いちじょうめい)なり。」

 「仏教を学ぶ人間はどのようにして理解すればよいでしょうか」。この言葉は僧があれこれ思い付きを弄んでいるようでもあるけれど、(ヌッ経をどのように学べばよいのかという態度は)真実に至る大きな力、道筋となるものである。ここからさらに一尺の水、一尺の波という現実の姿をはっきりしっかりつかむべきである。一丈の大きさの珠は一丈の明るさを持っているのである。

 学ぼうという気持ちが無ければ何も始まらない。

 仏教は突飛なこと、超人的なことが出来るようになるために学ぶのではない。この現実世界の日常生活をごく普通に生きるためのものであると思っている。ごく普通に生きるというのは、大宇宙の真理に従って、大宇宙の真理と一体となって行動するということである。そのために坐禅するのだ。

 坐禅することによって大宇宙と一体となり、現実のありのままの姿が見えてくる、つかむことが出来る。だから普通に生きていける。

 今の世の中、現実が見えているのかはなはだ疑問な言動が多いように思えて仕方がない。

 「コロナの隠れ陽性が増加」とかいう記事を見た。何を言っているのだろうか?感染しても無症状な人なんて、最初からたくさんいたに決まっている。今だってたくさんいるだろう。ワクチン接種したって重症化リスクは軽減されるけど感染しない訳じゃないという。ワクチン接種すれば症状出ないケースも多いだろう。これも隠れ陽性というつもりなんだろうか。

 現実が分からなくなって、とにかく「コロナは大変だ!」と言いたいだけにしか見えない。

 人間は思惑に囚われると現実が見えなくなり、頭の中の妄想と現実の区別がつかなくなる。

 今の世の中、こういうことが多すぎませんか?

 坐禅して本来の面目に戻りましょう。