正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十三

岩波文庫175、176ページ「釈迦牟尼仏のいはく、若説此経(にゃくせつしきょう)、則為見我(そくいけんが)、為一人説(いいちにんせつ)、是則為難(ぜそくいなん)。 (若し此の経(きょう)を説かんは、則ち我を見ると為(な)す、一人の為に説くは、是れ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十二

岩波文庫175ページ「諸仏は機に逗(とう)ずる説法ありとのみしりて、諸仏聴法すといはず、諸仏修行すといはず、諸仏成仏すといはず。いま玄沙の道には、すでに三世諸仏立地聴法といふ、諸仏聴法する性相あり。かならずしも能説をすぐれたりとし、能聴是法者…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十一

岩波文庫174、175ページ「玄沙の道かくのごとくなりといへども、参学の力量とすべきところあり。いはゆる経師論師の大乗小乗の局量の性相にかかはれず、仏々祖々正伝せる性相を参学すべし。いはゆる三世諸仏の聴法なり。これ大小乗の性相にあらざるところな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その八十

岩波文庫174ページ「三世諸仏の聴法は、諸仏祖の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道(どう)なほざりなるべからず。将謂赤鬚胡(しょういしち…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十九

岩波文庫174ページ「玄沙もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず。しかあれども、想料すらくは、玄沙おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし。火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十八

岩波文庫173ページ「玄沙の道(どう)に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴(かえんいさんぜしょぶつせっぽう、さんぜしょぶつりっちちょう)」といふ、これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏の法輪を転ずと…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十七

岩波文庫173ページ「雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉(いしつ)に参学すべし。玄沙の道(どう)に混乱することなかれ。雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界・二無尽法界の周遍のみにあらず。一…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十六

岩波文庫172ページ「しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。又、「三世諸仏、為火焔説法」といはず、「三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪」といはず、「火焔為火焔、転大法輪」といはざる宗旨あるべし。転法輪といひ、転大法輪といふ、その別ある…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十五

岩波文庫172ページ「玄沙いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。この道をきゝて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是(どうてし)なりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。いはゆる…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十四

岩波文庫171ページ「しかあればすなはち、火焔は諸仏の転大法輪の大道場なり。これを界量・時量・人量(にんりょう)・凡聖量(ぼんしょうりょう)等をもて測量(しきりょう)するは、あたらざるなり。これらの量に量ぜられざれば、すなはち「三世諸仏、在火…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十三

岩波文庫170ページ「しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧(しょうこ)すべし。三世諸仏の在火焔裏の化儀(けぎ)、ならふべし。火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正(えしょう)…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十二

岩波文庫170ページ「しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得(どうて)するに、かくのごとくの道(どう)あり。しばらく雪峰のいふ三世諸仏(さんぜしょぶつ)、在火焔裏(ざいかえんり)、転大法輪(てんだいほうりん)といふ、この道理ならふべし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十一

岩波文庫170ページ「いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。行仏すなはち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。たとひ知有なりといへども、たとひ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七十

岩波文庫169、170ページ「雪峰山真覚大師、示衆云(じしゅにいわく)、三世諸仏、在火焔裏、転大法輪(三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず)。 玄沙院宗一大師云(いわく)、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴(火焔ゝ三世諸仏の為に説法するに、三世諸…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十九

岩波文庫168ページ「 この展事投機のちから、功夫(くふう)をうるに、威掩万法(いえんまんぽう)、威、万法を掩ふ(おおう))なり、眼高一世(げんこういっせ 眼、一世に高し)なり、收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫(ちゅうく)・山門。さらに…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十八

岩波文庫167、168ページ「しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心(しん)にまかす。脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。ゆゑに道取あり、万法唯心(まんぽうゆいしん)、三界唯心(さんがいゆいしん)。さらに向上に道得(どうて)するに、唯…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十七

岩波文庫167ページ「雍容(ようよう)の破顔(はがん)あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾(ざんじ)なり。被物牽(ひもつけん)にあらず不牽物(ふけんもつ)なり。縁起の無生無作(むしょうむさ)にあらず、本性・法性(ほんしょう・ほっしょう)にあら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十六

前回についてちょっと補足したい。それは「満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり」の箇所だ。 満眼聞声(まんげんもんし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十五

岩波文庫166、167ページ「しかあれば、句中取則(くちゅうしゅそく)し、言外求巧(ごんげぐぎょう)する再三撈摝(ろうらく)、それ把定(はちん)にあまれる把定あり、放行(ほうあん)にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十四

岩波文庫166ページ「その参究の兀爾(ごつじ)は、万回(ばんうい)これ心(しん)の明白(めいびゃく)なり。三界ただ心の大隔(だいきゃく)なりと知及(ちぎゅう)し会取(ういしゅ)す。この知及会取、さらに万法なりといへども、自己の家郷を行取(あん…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十三

岩波文庫166ページ「この宗旨(そうし)あらはるる、古今のときにあらずといへども行仏の威儀忽爾(いいぎこつじ)として行尽するなり。道環(どうかん)として生死身心の宗旨すみやかに辨肯(はんけん)するなり。行尽明尽、これ強為(こうい)の為(い)に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十二

岩波文庫165、166ページ「了生達死(りょうしょうたっし)の大道すでに豁達(かったつ)するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。」 生死についての理解についての偉大な生き方をし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十一

岩波文庫165ページ「しるべし、安楽兜率といふは、浄土天堂ともに輪回することの同般なるとなり。行履(あんり)なれば、浄土天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。あると…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十

岩波文庫162ページ「上天にしては化天(けてん)す、人間にしては化人(けにん)す。花開(けかい)の功徳あり、世界起(せかいき)の功徳あり。かつて間隙(けんぎゃく)なきものなり。このゆゑに自他に迥脱(きょうとつ)あり、往来に独拔あり。即往兜率天…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十九

岩波文庫162ページ「深重の罪根たとひ無端なりとも、此輩の深重担なり。この深重担、しばらく放行(ほうあん)して著眼看(じゃげんかん)すべし。把定(はちん)して自己を礙(げ)すといふとも、起首にあらず。いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに罣礙せらる…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十八

岩波文庫163ページ「いま凡夫の活計(かっけ)する有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承(そうじょう)せるところにあらず。凡夫の有念と仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十七

岩波文庫162ページ「しかあればすなはち、たゞ人間を挙して仏法とし、人法を挙して仏法を局量(こくりょう)せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ、これただ業報(ごっぽう)の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十六

岩波文庫162ページ「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。行仏の設化するところには、四生あらざる衆生あり。天上人間法界等にあらざるところあるべし。行仏の威儀を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十五

岩波文庫161、162ページ「祖宗いはく、釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天(とそつてん)、化兜率陀天、于今有在(釈迦牟尼仏、迦葉仏(かしょうぶつ)の所(みもと)にして正法を伝へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在(ましま)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十四

岩波文庫161ページ「あるいはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。諸仏は唯人間(…