正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十八

岩波文庫167、168ページ「しかあればすなはち、為法為身の消息、よく心(しん)にまかす。脱生脱死の威儀、しばらくほとけに一任せり。ゆゑに道取あり、万法唯心(まんぽうゆいしん)、三界唯心(さんがいゆいしん)。さらに向上に道得(どうて)するに、唯…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十七

岩波文庫167ページ「雍容(ようよう)の破顔(はがん)あり、瞬目あり。これ行仏の威儀の暫爾(ざんじ)なり。被物牽(ひもつけん)にあらず不牽物(ふけんもつ)なり。縁起の無生無作(むしょうむさ)にあらず、本性・法性(ほんしょう・ほっしょう)にあら…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十六

前回についてちょっと補足したい。それは「満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり」の箇所だ。 満眼聞声(まんげんもんし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十五

岩波文庫166、167ページ「しかあれば、句中取則(くちゅうしゅそく)し、言外求巧(ごんげぐぎょう)する再三撈摝(ろうらく)、それ把定(はちん)にあまれる把定あり、放行(ほうあん)にあまれる放行あり。その功夫は、いかなるかこれ生、いかなるかこれ…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十四

岩波文庫166ページ「その参究の兀爾(ごつじ)は、万回(ばんうい)これ心(しん)の明白(めいびゃく)なり。三界ただ心の大隔(だいきゃく)なりと知及(ちぎゅう)し会取(ういしゅ)す。この知及会取、さらに万法なりといへども、自己の家郷を行取(あん…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十三

岩波文庫166ページ「この宗旨(そうし)あらはるる、古今のときにあらずといへども行仏の威儀忽爾(いいぎこつじ)として行尽するなり。道環(どうかん)として生死身心の宗旨すみやかに辨肯(はんけん)するなり。行尽明尽、これ強為(こうい)の為(い)に…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十二

岩波文庫165、166ページ「了生達死(りょうしょうたっし)の大道すでに豁達(かったつ)するに、ふるくよりの道取あり、大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす。」 生死についての理解についての偉大な生き方をし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十一

岩波文庫165ページ「しるべし、安楽兜率といふは、浄土天堂ともに輪回することの同般なるとなり。行履(あんり)なれば、浄土天堂おなじく行履なり。大悟なれば、おなじく大悟なり。大迷なれば、おなじく大迷なり。これしばらく行仏の鞋裏の動指なり。あると…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六十

岩波文庫162ページ「上天にしては化天(けてん)す、人間にしては化人(けにん)す。花開(けかい)の功徳あり、世界起(せかいき)の功徳あり。かつて間隙(けんぎゃく)なきものなり。このゆゑに自他に迥脱(きょうとつ)あり、往来に独拔あり。即往兜率天…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十九

岩波文庫162ページ「深重の罪根たとひ無端なりとも、此輩の深重担なり。この深重担、しばらく放行(ほうあん)して著眼看(じゃげんかん)すべし。把定(はちん)して自己を礙(げ)すといふとも、起首にあらず。いま行仏威儀の無礙なる、ほとけに罣礙せらる…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十八

岩波文庫163ページ「いま凡夫の活計(かっけ)する有念無念、有覚無覚、始覚本覚等、ひとへに凡夫の活計なり、仏々相承(そうじょう)せるところにあらず。凡夫の有念と仏の有念と、はるかにことなり、比擬することなかれ。凡夫の本覚と活計すると、諸仏の本…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十七

岩波文庫162ページ「しかあればすなはち、たゞ人間を挙して仏法とし、人法を挙して仏法を局量(こくりょう)せる家門、かれこれともに仏子と許可することなかれ、これただ業報(ごっぽう)の衆生なり。いまだ身心の聞法あるにあらず、いまだ行道せる身心なし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十六

岩波文庫162ページ「仏々正伝する大道の、断絶を超越し、無始無終を脱落せる宗旨、ひとり仏道のみに正伝せり。自余の諸類、しらずきかざる功徳なり。行仏の設化するところには、四生あらざる衆生あり。天上人間法界等にあらざるところあるべし。行仏の威儀を…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十五

岩波文庫161、162ページ「祖宗いはく、釈迦牟尼仏、自従迦葉仏所伝正法、往兜率天(とそつてん)、化兜率陀天、于今有在(釈迦牟尼仏、迦葉仏(かしょうぶつ)の所(みもと)にして正法を伝へてより、兜率天に往いて、兜率陀天を化して今に有在(ましま)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十四

岩波文庫161ページ「あるいはいふ、ただ人道のみに諸仏出世す、さらに余方余道には出現せずとおもへり。いふがごとくならば、仏在のところ、みな人道なるべきか。これは人仏の唯我独尊の道得なり。さらに天仏もあるべし、仏々もあるべきなり。諸仏は唯人間(…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十三

岩波文庫160ページ「しるべし、生死(しょうじ)は仏道の行履(あんり)なり、生死は仏家の調度なり。使也要使(しやようし)なり、明也明得(みんやみんて)なり。ゆゑに諸仏はこの通塞(つうそく)に明々(めいめい)なり、この要使に得得なとくとく)なり…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十二

岩波文庫160ページ「信法頓漸の論にもおよばざる畜類といひぬべし。ゆゑいかんとなれば、たとひ無生ときくといふとも、この道得の意旨作麼生なるべし。さらに無仏無道無心無滅なるべしや、無々生なるべしや、無法界、無法性なるべしや、無死なるべしやと功夫…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十一

岩波文庫159、160ページ「しばらく功夫すべし、この四生衆類のなかに、生はありて死なきものあるべしや。又、死のみ単伝にして、生を単伝せざるありや。單生單死の類の有無、かならず参学すべし。わづかに無生の言句をききてあきらむることなく、身心の功夫…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その五十

岩波文庫159ページ「すでに四生はきくところなり、死はいくばくかある。四生には四死あるべきか、又、三死二死あるべきか、又、五死六死、千死万死あるべきか。この道理わづかに疑著せんも、参学の分なり。」 すでに生については、胎卵濕化生という4つを聞…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十九

岩波文庫159ページ「いま仏々祖々の大道には、胎卵濕化生のほかの胎卵濕化生あること、不曾蔵に正伝せり、親密に正伝せり。この道得、きかずならはず、しらずあきらめざらんは、なにの儻類なりとかせん。」 仏、仏祖といわれる方々による真実の中には、単な…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十八

岩波文庫159ページ「仏道を説著するに、胎生化生(たいしょうけしょう)等は仏道の行履(あんり)なりといへども、いまだ濕生卵生(しっしょうらんしょう)等を道取せず。いはんやこの胎卵濕化生(たいらんしっけしょう)のほかになほ生あること、夢也未見在…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十七

岩波文庫158ページ「仏々祖々の道趣する尽乾坤の威儀、尽大地の威儀、ともに不曾蔵を徧界と参学すべし。徧界不曾蔵なるのみにはあらざるなり。これ行仏一中の威儀なり。」 仏祖である方々がおっしゃる全世界の威儀、全大地の威儀、それはともに明明白白とし…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十六

岩波文庫158ページ「この得道は、極大同小、極小同大の超仏越祖なるなり。大の有にあらざる、小の有にあらざる、疑著ににたりといへども威儀行仏なり。」 (尽大地、尽乾坤とはどういうことかということは)極めて大きなものは(見方を変えれば)小さいとい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十五

岩波文庫158ページ「学人おほくおもはく、「尽乾坤」といふは、この南瞻部洲(なんせんぶしゅう)をいふならんと擬せられ、又この一四洲をいふならんと擬せられ、ただ又神丹(しんだん)一国おもひにかかり、日本一国おもひにめぐるがごとし。又、尽大地とい…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十四

岩波文庫157、158ページ「しるべし、出生合道出(しゅっしょうごうどうしゅつ)なり、入死合道入(にゅうしごうどうにゅう)なり。その頭正尾正(とうしんびしん)に、玉転珠回(ぎょうてんしゅうい)の威儀現前するなり。仏威儀の一隅を遣有(けんゆう)す…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十三

岩波文庫157ページ「進歩也錯(しんふやさく)、退歩也錯(ついふやさく)、一歩也錯(いふやさく)、両歩也錯(りょうふやさく)なるがゆゑに錯錯なり。天地懸隔(てんちけんきゃく)するがゆゑに至道無難(しいどうぶなん)なり。威儀儀威(いいぎぎい)、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十二

岩波文庫157ページ「いまの把捉は、放行をまたざれども、これ夢幻空花なり。たれかこれを夢幻空花と将錯就錯せん。」 (「出」「入」の文字など必要ない)と理解すること、またそのようなことを放っておくことは起こるけれども、これは夢、幻、空に咲く花の…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十一

岩波文庫157ページ「入之一字(にゅうのいちじ)、出之一字(しゅつのいちじ)、這頭也不用得(しゃとうやふようて)、那頭也不用得(なとうやふようて)なり。」 言葉で、文字で入るとか、出るとか、こちらでもあちらでも、どこでも使う必要はない。 言葉、…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四十

岩波文庫157ページ「出門便是草(しゅつもんべんしそう)、入門便使草(にゅうもんべんしそう)、万里無寸草(ばんりむすんそう)なり。」 門を出れば様々なことがたくさんある、起こる。門の中に入っても様々なことがたくさんある、起こる。しかし、そんな…

正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三十九

岩波文庫157ページ「拈来拈去、出入同門に行履(あんり)する、徧界不曾蔵(へんかいふすんぞう)なるがゆゑに、世尊密語・密証・密行・密附等あるなり。」 いろいろな行動をこの世界の中で行うのだけれど、この世界は明明白白とした世界なのなのであるから…