正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その五  

 また、岩波文庫13ページ。「いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解(しょうげ)をおほひ、むなしく自狂(じきょつ)にゑうて、ひさしく迷郷(めいきょう)にしづまん」
 間違った指導者に惑わされて、正しい理解ができなくなって、自分は正しいと勘違いして(それは狂った酔っぱらい)、間違った中に沈み込んでしまう、と私は理解している。
 邪師のところは、うっかり何か言うと、めんどくさいことになるので、触りません。
 ここでは、「自狂にゑうて」について書きたい。
 人間、大体は自分は正しいと思っている。私もそうだ。間違ってるけどやっちゃえ、という人もいるだろうけど、やはり少数派だろうし、常にそうしているということは無いだろう。
 問題は、自分が正しいと思っていることが「自狂にゑうて」いないか、正しいと勘違い、思い込んでいないかということだろう。
 例えば東芝とかスルガ銀行のトップは自分の経営方針、判断は正しいと思っていただろう。けれど、結果として「自狂にゑうて」いたと批判されても仕方ないと思う。
 私も「自狂にゑうて」いないか、気をつけているつもりだ。
 この場合、難しいのは「自狂にゑうて」いるかいないかを、どのように判断するかだ。
 道元禅師のそれに対する答は、坐禅すればよい、坐禅するしかない、ということになる。
 坐禅をした身心は間違わない。頭で考えれば正しさに行き着くということにはならない。上記2社のトップだって必死に考えたと思う。
 もちろん、色々な知識は必要。しかし、坐禅した身心でなければ正しいことはできない。
 考えただけでは正しさに行き着かない、というのは普通には受け入れ難い。
 しかし、私は道元禅師を信じている。坐禅し、正法眼蔵を読むと言うことは、信仰なのであって、信仰である以上このように断言することになる。