正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その九

 岩波文庫18ページ「わづかに一人一時の坐禅といへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界(むじんほうかい)のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事(ぶつけどうじ)をなすなり」

 ひとりの一時の坐禅は、森羅万象(宇宙のすべて)とひとつになることであり、無限の時間に問題なく通じるので、過去・現在・未来において仏と同じ教え導くことをする、ということだと思っている。

 一時の坐禅はこのようなものすごいことなのだ!とここを読んだとき感動した。私はちっぽけだが、坐禅する私はそうではないと気持ちが楽になった。

 坐禅とは、ただ坐るだけだが、すごいことなのだ。

 ちょっと前に戻る。11ページに「「(自受用)三昧に遊化(ゆけ)するに、端坐参禅(たんざさんぜん)を正門(しょうもん)とせり」とある。坐禅は苦行ではなく、遊び戯れることなのだ。以前書いたように坐禅を始めた頃は頭の中の光景と格闘し、そのたびに「これはいかん」と坐禅に戻っていた。当時は「遊戯」なんて思えなかったが、今思い返せば、実際にはないものと格闘していたのだから遊び戯れていたと言えるのだろう。

 坐禅を続けていると、体は楽であるし、自分がどんなものか、世の中はどんなものか、感じることができて楽しい。坐禅は「安楽の法門」ともいう。

 日本人は難行苦行が大好き。難行苦行した末に何かに到達する、立派な人になるというストーリーが大好きだ。だから、坐禅も苦しさに耐えに耐えてやるもの、というイメージがある気がする。釈尊難行苦行の末に悟りを開いたというではないか、と言うかもしれないが、釈尊難行苦行をした末、それらは意味がない、坐禅すればよいとおっしゃったと私は思っている。釈尊がせっかく自分の体験から坐禅すればよい、とおっしゃっているのに、それに逆らって難行苦行する必要はないだろう。

 坐禅と言うと、「警策(きょうさく)」という棒で、姿勢が乱れたり動いたりしたら肩を打つ、というようなことがあるらしい(私は寺には行かないので知らないが)。それで厳しい修行というイメージがあるのかもしれない。しかし、西嶋氏が書いておられるが、道元禅師の著作の中には、坐禅のやり方を懇切丁寧に書いた「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ」とか、正法眼蔵のなかにも「坐禅箴(ざぜんしん)」「坐禅儀」という巻があるが、どこにも警策のことが書かれていない。厳しいもの好きの日本人が好んでやっているだけでは?と思ってしまう。厳しさに耐えに耐えてやり抜け!という指導を、パワハラというのではないのかな?