正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 辦道話その十一

 岩波文庫21ページ「経書(きょうしょ)をひらくことは、ほとけ頓漸(とんぜん)修行の儀則ををしへけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしむるとなり」
 お経は修行の仕方を教えているもので、それに従って修行(坐禅しながら)すれば真実を得られる、ということだと思っている。
 お経に「神秘的な」力があるかないかを扱うと面倒くさいことになると思うのでやらない。ただ、道元禅師はこのように書いておられる、私もそうだと思うということにとどめる。人はそれぞれ自分の信じることをすればよい。それに私も毎朝般若心経を唱えている。習慣で気分がいいからである。ご利益があるとは思っていない。
 お経は修行の仕方を教えているものとは言っても、お経の数は膨大で、全部読むなんて無理。仕事して生活の糧を得ている人には絶対に無理。お経だけ読んで生活できる人なんていないだろうし、お経を読むことが人生の目的ではない。
 西嶋氏が書いているように、お経を全部読むなんて出来ないから、道元禅師は正法眼蔵をお書きになった。だから正法眼蔵を読みながら、坐禅すればいいのだ。
 ちょっと別なことを書く。何か書物を読んで、「自分はたくさん知識を持っていて偉い」と勘違いしている人はたくさんいる。また、そういう人を偉いと思っている人もたくさんいる。
 しかし、色々知識はあるけど、書物を読んで資格を取っているけど、実務ではまったく役に立たない、無能な人間をたくさん見てきた。書物は方法、ルール、事例を示してはくれるが、実際にやれるかは別の話。現実の中で実際に行動できるかが生きていく上で一番大事なこと。
 やり方を教わっても自分でやってみなければ何も分からない。また、知識はあっても現実を目の前にすると、どうしていいか分からないという人は、「自ら行動する」ということを学んで来なかった人なのだと思う。机の上のお勉強ばかりでは駄目なのだよ。
 お経を読んでも坐禅という行動をしなければ何にもならないのと同じである。