正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 現成公案その五

 「しかもかくのごとくなりといへども、華(はな)は愛惜(あいじゃく)にちり、艸(くさ)は棄嫌(きけん)におふるのみなり」西嶋氏はこれを道諦の立場とされている。
 頭の中で理想をあれこれ考える、客観的に世の中は物質の集まりと考える、人間は一所懸命行動するしかないと考える。これらが苦集滅。
 このように考えていても、現実の世界は、そのような考えとは関係なく、厳然として存在する。つまり、華は「きれいだな」と思っていても散ってしまう。人が愛でても惜しんでも関係ない。
 私は毎朝、草(艸)をむしっているが、次から次へと草ははえてくる。嫌になるというか呆れるというか、私がどう思おうと関係なくはえてくる「棄嫌におふるのみなり」である。
 西嶋氏は、現実をしっかり掴める状態になること、これを道諦とされていると私は思っている。西嶋氏はさらに苦集滅は考え方だが、道諦は考え方ではなく、坐禅によって得た境地で現実を体得すると主張されていると私は思っている。
 以前に書いた自受用三昧は坐禅により現実を掴んで自らを自在に使いこなすこなすことであり、道諦の立場だと思う。また回向返照(えこうへんしょう)という言葉があるが、これも坐禅の境地。坐禅していると大宇宙の中で自分が1人ぽつねんと坐わっていると感じることがある。現実の中の自分を感じることができる。的確な表現とは思わないが、自分はどんなものか分かる気がする。時々、回向返照を「自分の中に答えがある。だから安心していい」というように説明していることがあるようだが、大宇宙の中の自分の存在を感じることによって自然と誤った行動をしないということにはなるが、「自分の中に悩みの答えがある」何ていう浅はかなものではないと私は思っている。
 大体、仏教によって安心を得るとか平穏に暮らすことができるとかいうことが、仏教を誤解させる原因だと思う。人生は瞬間瞬間を必死に生きていくものであって、安心とか平穏などを求めるから逆に苦しくなる。ありもしないものをあるかのように言うのは、極論すれば詐欺ではないか。
 坐禅していると「今は休んだ方がいいな」「今は一踏ん張りするときだな」と自然に感じる。常に平穏なんてことはない。休むべき時は休むことが分かる。それで十分ではないか。やるべきことが体感でき、きちんとできる、毎日コツコツやっていく、それで十分ではないか。
 平穏な生活を望むなんて吉良吉影だけでいいのです。