正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その二

 最初の頃に書いたけれど、私が遭遇した仏教の関係者は、私にとっては、変な人達だった。
 また、世間一般の仏教のイメージ(私だけかもしれないが)は、この世は儚い、虚しい、実在しない(人間が実在すると思っているだけ)とか、私には到底受け入れられない、「そんなことないだろう。そうではない面もたくさんあるだろう」というものだった。
 また、対人恐怖症気味で、人間嫌い(人と会うのは基本的に苦痛)なので、教祖とかリーダーの下、集団になって、その人の教えに従って、その人の言うとおりに行動するなんて、考えただけで、気分が悪くなる。「だからあなたは幸せになれない」とか言うかもしれないが、心底余計なお世話である。ほっといてね。
 摩訶般若波羅蜜の意味だけど、西島氏の「提唱録第一巻中」の26ページから、その記載があるので、それに沿って書きます。
 摩訶とは、偉大な、非常に大きなということ。
 般若とは、正しい智恵ということ。
 この「正しい智恵」というのが、中々難しい。私なりには、瞬間的な判断、ぱっと浮かび上がってくるもの、が正しい智恵だと思っている。色々なことを知っていても、その瞬間に活かせないなら意味がない。それに人生で経験することは、知識の中に無いことの方が多い。西嶋氏は「直観」という表現もされておられる。そのとおりと思う。仏教を持ち出さなくても人間の直観というのは頼りになるという経験は皆さんけっこうあるのでは?例えば、テストのとき「あ、これだ!」と答が浮かんだけど、そのあと色々考えているうちに、段々迷って変えてしまい、結局、最初の答が正しかった何てことなかったですか?私はけっこうありました。
 では、正しい智恵はどうすれば得られるか。坐禅して身心を正しい状態、バランスのとれた状態にするしかない。
 波羅蜜は、彼岸に到達する、到彼岸、。私なりには、目的に達するということではないかと思っている。
 そうすると摩訶般若波羅蜜とは「偉大な正しい智恵に到達する」ということになり、この巻はその解説とそのための方法を説いたものということになると思っている。