正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜その十一

 つくづく世の中何でもありだな、と思う。そして、世の中で騒いでいることって、本当にそんなに大事なことなの?とも思う。一体、人類は何がしたいのですかね?この先ろくなことにならない気がするけど。坐禅が広まらないですかね。
 正法眼蔵を読んでいると、文章の美しさに感動する。伝えたいことを必死で書くと文章に力が宿る。これは間違いない。ビジネスの企画書でも、本当にやりたいことを十分に時間をかけて調査し、思慮に思慮を重ねたものは読んでいて「快感」がある。美しいものは真理だと思っている。
 ただ、大宇宙の真理、仏教とは何かを言語で表現することは、難しい。難しいが言語にしなければ伝えられない。道元禅師も苦心惨憺されたと思うし、経典もあの手この手を使って何とか伝えようとしていると思う。
 澤木興道氏は、次のように書いておられたと記憶している。「お経はまず散文で書いてある。ただ散文ではどうしても言い尽くせない。そこで次に同じ内容を韻文で書いて、韻を踏む力を使おうとする」韻、リズムにより言うに言われぬものを伝えようとする。おそらくは伝えきれないけれど、やれるだけのことをやる、ということだと思う。音楽が感動をもたらすのは、言語だけでは伝えきれないものを伝えたいという欲求が人間にはあるということだろう。地球上、あらゆる所に音楽があるのはその証拠ではないかな。
 岩波文庫68ページ。
「先師古仏云(せんじこぶつのいはく)
 渾身似口掛虚空(うんしん口ににて虚空にかかり)
 不問東西南北風(東西南北の風を問わず)
 一等為他談般若(いっとう他と般若を談ず)
 滴丁東了滴丁東(ていちんとんりゃんていちんとん)」
 先師古仏とは、道元禅師が真の仏道を伝授していただいた天童如浄(てんどうにょじょう)禅師のこと。如浄禅師が作られた偈頌(げじゅ、五言または七言を一句として4句からなるもの。詞)で風鈴偈と言われている。
 風鈴は、その形から全体が口のようで、空間に下がっている。そして、東だろうが西だろうが、南だろうが、北だろうが、どこから風が吹いても正しい智恵を語っている。それは「ていちんとんりゃんていちんとん」という風鈴の音(ね)だ。
 大宇宙、周りに広がる空間、それを全身に受け、正しい智恵を語っている。正しい智恵というのは、頭のなかで理解するものではない。体全体、全身で体感、体得するものだ。
 風鈴が空間にぶら下がっていることと坐禅している状態は全く同じ。坐禅して大宇宙を体感、体得しているのだ。そして、それは血相変えてやることではない。風鈴が風を受けてちりんちりんとなるような、ごくごく自然な、もっとも自然な状態なのだ。