正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その十八

 岩波文庫76ページ「悉有は百雑砕(はくざっすい)にあらず、悉有は一条鉄(いちじょうてつ)にあらず。拈拳頭(ねんけんとう)なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖(しょしょう)と斉肩(せいけん)なるべからず、仏性と斉肩なるべからず」
 すべての存在は、ばらばら(百雑砕)に存在するものではない。かと言ってすべての存在が一つの塊(一条鉄)でもない。
 拈拳頭とは、拳を作る、振り上げるという具体的な行動のことで、そういう具体的行動であるから、大きいとか小さいとか評価するものではない。仏性はすべての存在なのだから、緒先輩方と肩を並べるというような表現はできないし、ましてや仏性と肩を並べるなんていうようなことはない。
 私はここでは「拈拳頭」という言葉が大事だと思っている。仏教は、理論を否定するものではないが、現実世界での行動がなければ意味がない。
 この頃、言葉は格好いいが、やってることはいい加減な奴が多いと思えてならない。人間は今の瞬間何をしたかで価値が決まる。何をしたかは人が見ていようが見ていまいが、関係ない。大宇宙の真理は、自分自身で実現するもので、他人や社会の評価など関係ない。
 世の中の評価に右往左往して、いやそれだけが基準になってしまって、自らの行動がわからなくなってしまっているのではないかな。それじゃ、困りますよね。