正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性そのニ十一

 岩波文庫77ページ「仏言、「欲知仏性義(よくちぶっしょうぎ)、当観時節因縁(とうかんじせついんねん)、時節若至(じせつにゃくし)、仏性現前(ぶっしょうげんぜん)<仏ののたまわく「仏性の義を知らんと欲(おも)はば、まさに時節因縁を観ずべし。時節若(も)し至れば、仏性現前す」>」
 「いま「仏性義をしらんとおもはゞ」といふは、たゞ知のみにあらず、行ぜんとおもはゞ、証せんとおもはゞ、とかんとおもはゞとも、わすれんとおもはゞともいふなり」
 「仏言」以下は大般涅槃経にあるそう。
 これを引いて道元禅師が解説をされている。
 仏性の性質(仏性義)を知ろうと思うならばとは、頭の中で理屈で理解するだけではない。実際に何かを行おうと思うならば、体験(西嶋氏は「証する」を体験するとされている)しようと思うならば、他の人に説明しようと思うならば、忘れてしまおうと思うならば、等々ということである。
 仏教は頭の中のことではない。実在の世界が対象。だから、「仏言」を語れば、知る、行動する、体験する、忘れるという具体的な実際の人間の行うことを意味している。
 ここで、忘れるというのが、私は読んでいて驚いた。私なりには、仏性、仏性と頭の中で考えてそれにとりつかれて、振り回されずに、というのが、忘れる、ということだと思っている。「知る」という「言葉」にとらわれてはいけない、と道元禅師はお説きになったのだと思う。
 現実に行動しているときは無我夢中で、理屈など言っている暇はない。それは「忘れる」と表現できるだろう。
 道元禅師は、仏性を観念論、理屈で取り扱ってはいけないと繰り返し繰り返し説かれている。
 今は、観念論、理屈を重要視しすぎではないかと思う。観念が頭の中一杯になると、現実が見えなくなって異常なことをしでかしてしまう。
 人を殺してはいけない、と言ったところで「正義」の名のもとに人殺しは行われている。イラン人をアメリカが殺した国家レベルから、福祉園の大量殺人という個人レベルまで。アメリカの場合は国益とか、中東の利権とか、パワーバランスとか、過去の経緯とか、複雑で単純ではないんだろうけどね。「正義」を振りかざしている人に別の「正義」を振りかざせば、喧嘩にしかならない。自分は正しいと信じている人間に観念論は通じない。
 本来人間は人を殺せない。その本来の面目になる以外ない、そのためには坐禅が必要。大宇宙の真理のもと現実をよく見て、行動できれば、何とかなるとは思うのだげれど。でも無理だろうなあ。