正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十

 岩波文庫86ページ「いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色(しき)を強為(こうい)して空とするにあらず、空(くう)をわかちて色(しき)を作家(そか)せるにあらず」
 ここでいう「空」は般若心経の「色即是空」の空ではない。色(物質)を無理やりに「空」と言い表しているのではない。空、絶対的ありのままの存在、真実をあれこれ分析して、「色」だとするのではない。
 ここは正直、難しい。私なりに考えると「色即是空の空にあらず」は、単にお経の文句として唱えているものではないということかな?と思っている。
 要は、言葉遊びのように「色」だ「空」だと、頭の中で弄んではいけない、ということだろうと思う。
 現実に行動するというのは、本当に難しい。頭の中で「正しい」「正しくない」なんて考えるのは、簡単。言葉の上での論争もどうということはない。しかし、頭の中でどう考えようと、言葉でどんなにもっともらしいことを言おうと、現実にどうするのか、行動するのかは全く違う次元のことだ。
 西嶋氏の四諦論では苦集滅道について、(私の理解です)苦は主観、理想論、観念論。集は客観、物質、唯物論。しかし、この2つでは人生の問題は解けない。そこで滅、行動が出てくる。行動によってのみ人生の問題は解決される。人間の価値は何をするか、今この瞬間に何をするか、行動で決まる。
 もちろん、苦、集を軽視するものではない。両方とも大事で勉強する必要はあるが、重要なのは行動だということ。
 この頃周囲を見渡すと、言葉だけの観念論だけだったり、金や地位という物質だけだったり、そういう人ばかりに見えて仕方がない。
 日本にとどまらない。世界中そうじゃないだろうか?
このままじゃ大変なことになるというか、なりつつあると感じる。
 人間は何のために生きているのか。
 坐禅してくれませんかねえ。