正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十三

 岩波文庫87ページ「おほよそ仏性の道理、あきらむる先達(せんだち)すくなし。緒阿笈摩経(しょあぎゅうまきょう)および経論師(きょうろんじ)のしるべきにあらず。仏祖の児孫(じそん)のみ単伝(たんでん)するなり。仏性の道理は、仏性は成仏(じょうぶつ)よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり」
 仏性とは何かをしっかりとはっきりわかっている人は過去において少ない。阿含経(古い経典で、釈尊の生涯が書いてあるとのこと)を読んだり、経典を読んで仏教を理解しようというような人たちには、仏性とは何かを知ることはできない。釈尊の直系の(坐禅を中心とした)人たちにのみ伝わるのである。仏性が備わるのは成仏(仏となる)してから備わるのだ。ここでいう成仏とは坐禅するということ。坐禅した瞬間に仏となるのだ。
 「一切衆生悉有仏性」は真実。しかし、坐禅という行動がなければ仏性とは何かはわからない。
 今は成仏というと死ぬこと、あるいは死んであの世に行く、極楽浄土に行く、というように使われているが、ここでは文字通り、「仏に成る」ということ。
 ちゃんと葬儀をしない、供養をしないと成仏しないなんて言うけど、それは寺や葬儀社の経営の話。
 西嶋氏は「仏教では死後の世界を問題としない。極楽浄土に行くというのは仏教ではない」と書かれている(と私は思っている)。私はそのとおりだと思う。というか、死んだ後どうなるこうなる、だからこう生きるなんて、そんな暇はない。今この瞬間瞬間を一生懸命生きていくだけだ。死んだ後、自分がどうなるかなんて知らん。後に残る人たちにできるだけ迷惑をかけないように、色々考えては入るけど。
 坐禅して、瞬間瞬間どう行動するかが人間の生きる意味であり、価値だ。経典読んで頭の中で、あれこれ考えるだけでは、大宇宙の真理は体得できない。
 経典は経典として価値があるが、それはどう行動するかに繋がらなければ意味がない。
 前回も書いたけど、経典は膨大にあり、読みきれるものではない。それを利用して「この経典こそ本当の価値がある」なんて言って、人をだまくらかして金儲けしようとする奴らが後を絶たない。困ったもんだ。
 道元禅師は「法華経を経典の王」とされている。経典を否定などされていない。ただし、坐禅がなければ意味がないということなのだ。