正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十六

 岩波文庫88ページ「このゆゑに、五祖は向他道(こうたどう)するに、「嶺南人、無仏性」と為道(いどう)するなり。見仏聞法(けんぶつもんぽう)の最初に、難得難聞(なんてなんもん)なるは「衆生無仏性」なり」
 このようなことから、五祖は、他の人のために嶺南人=無=仏性と言われたのである。仏教を学ぶときに(見仏聞法)最初の難問は「衆生無仏性」ということである。
 禅というと難解な問答、分かったような分からんような解釈をしているというイメージが私にはあった。特殊な異次元の世界という感じで、最初の頃に書いたような経験がなければ、禅と関わることはなかったと思う。
 正法眼蔵によって、そして坐禅することによって、禅というか仏教は今この瞬間の現実をどう生きるかを教え、示しているものだと理解することができた。
 単純に「衆生無仏性」を目にすれば、「衆生には仏性がない」と読むことになるけれど、それでは、何をどうすればよいのか、全然分からない。
 道元禅師は、衆生は言葉では言い表せない(無)けれど素晴らしい仏としての本質、性質を持っている、と説かれる。これであれば、私は救われる。そして、それは自分が坐禅という行動をとることで実現する。これなら私でもできる。
 何だか小難しいことをしたり顔で偉そうに言う奴がいるが、「あんた、そんなことばかり言って、じゃあどう生きりゃいいの?」と聞いてみたくなる。本音では殴ってやろうかという衝動にかられる。でも世間では、尊敬されちゃったりする、いやはや、どうにもこうにも。ま、これが現実なんだからしょうがないけどね。
 現実の行動が伴わなきゃ、ただの戯言。戯言ばかり言ってる戯け者が増えてませんかね?「じゃあどうするの?」と聞いてみたい人はたくさんいる。
 すこーし黙って、きちんと行動して見せてくださいよ、と言いたくなります。