正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十七

 岩波文庫88ページ「或従知識、或従経巻(わくじゅうちしき、わくじゅうきょうがん)するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を見聞覚知に参飽(さんぽう)せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり」
 指導者に従って、あるいは経典に従って、仏教を学ぶときに、聞くこと学ぶときに喜ばなければいけないことは「衆生無仏性」ということである。「一切衆生無仏性」を学び理解することが十分ではない、心身に行き渡っていないものは、まだ仏性を学び理解していないのである。
 重要、肝心要のことは、衆生=無=仏性ということ。それが体得できることが喜び。いつもながらだけど、坐禅すればよい。
 仏性があるとかないとか、抽象的な議論をしたところで現実の問題は解決しない。もちろん論理的思考は大切だし、体系的なロジックも重要だ。だけど、それだけだと危険だ。前にも書いたけど、論理的に正しいということだけで現実を処理しようとすると人間って、その論理に合わない人たちに対して、残酷になる。
 正しさ、正義、理想、愛は人を殺す。これは事実だ。戦争は正義の名の下に行われている。
 これを回避するには、この世界のあらゆるものは言葉では言い表せない何かであり、大宇宙の真理、仏の性質を持っているということを、体感、体得するしかないと思っている。
 今は、学問というか、頭脳偏重だから、通じないだろうなぁ。しかし、正しい行動ができるかどうかは、坐禅によって、一切衆生無仏性を体得するしかない。これは間違いない。