正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その五十八

 岩波文庫88ページ「六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧(ぜんぎょう)なし。たゞ「嶺南人、無仏性」といふ」
六祖が仏に成ることをひたすら求めたのに対し、五祖先が六祖を仏とならせるのに、行ったことは、ただ「嶺南人、無仏性」と言っただけで、その他に言った言葉はなく、特に手立て(善巧)を使っていない。
 これまでのところで、繰り返し説かれているのは、人間は、言葉では言い表せない何かであり素晴らしい仏性、仏としての本質を持っているということ。
 この本質は坐禅によってしか得ることはできない。
 こういうと、楽天的に過ぎる、現実はひどいものではないか、悪い奴はたくさんいるではないか、と言われると思う。私も、今の世の中、おかしいことが多いと思う。
 しかし、それは人間の本質がおかしいということではないと思っている。本質を見失っているのだと思う。
 起業して大儲けした、企業を再建して巨額の報酬を得た。実績に対して報酬を得るのは当然だが、程というものがあるだろう。そんなに財産持ってどうするの?と思ってしまう(貧乏人の僻みですかね)。従業員や社会への還元を考えたらいいのに。財産欲しくて生きてる訳ではないでしょう?
 私が会った社長さんからこんな話を聞いたことがある。「今期は増収増益になる。社員の給料と役員報酬をどのくらいにするか、役員と社員で決めてくれ」と言ったそうだ。その結果「滅茶苦茶なことにはならんよ。おおよそこんなとこだろうという上げ幅になった」とのこと。大企業という訳ではないからできるのだという人はいるだろう。しかし、社長が「俺が俺が」と言ってお金取っちゃったら、その会社は長続きしないと思うけどね。
 トップが自らを律することができなきゃ、おしまいでしょう。
 セレブだの豪邸だのグルメだの、人間が生きる本質と関係ないことに関心が向いてるようじゃ、どうにもならない。
 けど、これは国家権力で是正するものではない。人間は、あくまでも自由を保証されねばいけない。そして自由を保証されている以上、どう生きるかの責任はその人が負わなければいけない。私も過去の自分の言動の責任は今も負ってます。
 では、どう生きるか?人間は何故生きるのか?これしか書くことはない「坐禅するしかない」。