正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十

 岩波文庫88、89ページ「六祖いはく、「人有南北(にんうなんぼく)なりとも、仏性無南北(ぶっしょうむなんぼく)なり」。この道取(どうしゅ)を拳(こ)して句裏(くり)を功夫(くふう)すべし。南北の言(ごん)、まさに赤心(せきしん、しゃくしん)に照顧(しょうこ)すべし」
 六祖がおっしゃったのは、人間自体を取り上げれば、南の方の人、北の方の人ということはあるけれども、仏性、仏としての性質、本質には南も北もない。この六祖の言葉を取り上げて、その言葉の本当の意味をよく考え、学ばなければいけない。南北という言葉はどういう意味か、素直な心、真心を持ってよく勉強しなければならない。
 色々な人間がいるが、仏性ということは同じ。本来人間は間違ったことはしない、というかできない。けれど、坐禅しなければ仏性は現れないので、おかしなことをしてしまう人間が出てきてしまう。
 正しいというのは大宇宙の真理にかなっているかどうかということ。法律に触れてない、法的には責任は問われないなんてことを言うけど、法的に問題なくても人間としてやっていけないことは、やってはいけないに決まっている。法律なんてものを持ち出すこと自体がどうかしている。法律は社会を統治する上での最低限のルールで、本来、権力の暴走や社会の利益を害する者を抑えるものだと思う。
 トイレットペーパーをネットで売った県議や、消毒液買い占めた奴がニュースで取り上げられていた。どちらも法的には問題ないのだろう。しかし、今の社会の状況から、そんなことを人間としてやってしまう、やれてしまう、ということを、私は恐ろしいとも感じる。そして、これを強制力をもって規制するということにも不快感、不気味な感じを持つ。
 人間一人一人の行動が社会の有り様を決める。「仏性無南北」「無仏性」を坐禅によって体得するしかないと思うんだけどなぁ。