正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十一

 岩波文庫89ページ「六祖道得(どうて)の句に宗旨(そうし)あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅のの搆得(こうて)あり。六祖これをしるやいなや」
 六祖の言葉に重要なことがある。それは、人は仏になろうとするけれど、仏性=言葉では言い表せない何かであるところの素晴らしい仏の本質は仏に成るということと関係ない(そもそも仏性は成るとかならないとかいうものではなく、絶対的な事実)ということ。そういう主張であるが、六祖はそれをわかっていたかどうか。
 修行して仏に成る(成仏する)、悟りを開くとか言うけど、一切衆生=悉有=仏性は仏に成るもならないもない。当たり前過ぎて文字で書くと、却って分かりにくくなってしまう。
 人間が日々を生きる、瞬間瞬間を生きる、これは大変なことだと、最近しみじみ思う。私は経験から「世の中何でもあり」だと思っている。コロナで大騒ぎしているけど、まだまだ色んなことが起こるだろう。コロナが収まっても、その先にまた色んなことが起こる。
 それは絶対的事実だ。その事実に対して、言葉では言い表せない何かである仏性を坐禅によって心身に実現して瞬間瞬間生きていく。大宇宙の真理に従って瞬間瞬間行動すれば、因果の法則で正しいことが実現する。個人にも、社会にも。
 どんなに立派な理想でも、会社なら経営計画でも、あるいは政策でも、それを現実と向き合って毎日毎日瞬間瞬間行動する人たちがいなければ実現することは絶対にない。今派手な言動をする人たちを持ち上げ過ぎじゃないだろうか?
 普通のことが普通にできる。普通のことだから、華々しく世の中で取り上げられることはない。しかし、この事こそが、価値のある、偉大なことだと思っている。
 この頃、よく呟くことがある。「立派なことをおっしゃっているけれど、それは誰がやるんですか?」