正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十二

 岩波文庫89ページ「四祖五祖の道取する無仏性の道得(どうて)、はるかに罣礙(けいげ)の力量ある一隅をうけて、迦葉仏(かしょうぶつ)および釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)等の諸仏は、作仏し転法(てんぽう)するに、「悉有仏性」と道取する力量あるなり。」
 四祖と五祖がおっしゃった無仏性という言葉には時間、空間を越えて真理を捉える力があり、その力によって迦葉仏釈迦牟尼仏などの仏の方々は仏と成り、説法されたのだが、その時「悉有仏性」と言うことができる力量があったのだ。
 釈迦牟尼仏釈尊のこと。迦葉仏というのは釈尊が現れる前の仏祖とのこと。釈尊の前に七人の仏がおられて、過去七仏というそうだ。
 大宇宙の真理は釈尊によって生み出されたのではない。大宇宙の真理は宇宙と共に存在する。つまり、釈尊が産まれる前から大宇宙の真理は存在している。釈尊はそれを仏教という形でまとめ、伝えてくださったということ。だから、過去七仏ということが出てくる。
 だから、釈尊は尊敬すべきではあるが、いわゆる「神」ではない。これは仏教の特色ではないかと思う。絶対的な神を信仰するのではない。坐禅して自分自身が大宇宙の真理を自らの心身で実現することが求めるもの。自分の外側に信仰の対象を求めてはいない。
 人それぞれ何を信じても良いし、それでその人が満足なら他人がとやかくいうことではない。憲法でも信教の自由は認められているしね。だけど、私は神だとか特定の、人物や物を拝み奉ることはできない。対人恐怖気味という病的なこともあるけれど、とても無理。大宇宙は絶対的な調和と原理のもとにある、ということは実感として(頭、脳みそではなく)わかる。
 そうは言っても、世界を見れば、キリスト教イスラム教とか、宗教は強大な権力と影響力、支配力を持っている。そして、どうも今の様子では宗教が相容れる可能性は限りなくゼロに近いのだろう。大丈夫なのかな?
 横道に逸れすぎた。ここで四祖五祖が「無仏性」とおっしゃった。言葉では言い表せない何かである絶対的な本質、存在だから仏性などという言葉を超越している。だから「無」仏性とおっしゃった。
 言葉では言い表せない何かは、私は大宇宙の真理と理解してよいと思っているが、この世の中のすべての存在=悉有=仏性として存在している。
 つまり、無仏性と悉有仏性は、表現が違うだけで同じこと、ということなのだと思っている。