正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十三

 岩波文庫89ページ「悉有の有(う)、なんぞ無々の無に嗣法(しほう)せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり」
 悉有といったときの有は、絶対的な無(無々の無)と同じことである。(嗣法というのは法を継承するということなので、嗣法せざらん、つまり継承しないことがあろうか、継承している、つまり同じ、ということになると思う)そういうことであるから、無仏性という言葉が四祖五祖から伝わったのである。
 有るとか無いとか、頭の中で言葉をいじくり回すと、どんどんおかしくなる。
 この正法眼蔵仏性巻で説かれている、無、有について、道元禅師は何とか真の意味を伝えようと必死に努力されていると思う。このように文字で残していただけなければ、私たちは真の仏教にたどり着く糸口がなくなってしまう。だから、正法眼蔵は貴重であるし、偉大だと思っている。
 ただ、正法眼蔵坐禅した心身でなければ、わからない。頭で理解するというものではないのです。坐禅していると全身で、なるほどそのとおりだ、そういうことなのか、と感得できる。
 坐禅せずに、正法眼蔵に触れても無駄だと思ってます。
 オリンピックは延期になったそうな。普通に考えれば、やれないわな。最大のお金の出し手のアメリカがコロナでオリンピックどころではないだろうし、ヨーロッパだって、特にイタリアとかスペインに「オリンピックやります」なんて言えば「アホか」と言われるに決まっている。
 仏教は現実をどうするか、そのためには現実を事実をいかに正確に捉えるかを重視していると思っている。そのためには坐禅が必要だ。
 オリンピックをやるやらないは、色々な組織が複雑な立場、利害関係の中、あーでもないこーでもないと智恵を絞り、陰に陽に駆け引きして、決まるのでしょう。そんな単純なものであるはずがない。
 しかし、結論は現実を踏まえたものに落ち着くことが多い。もちろん、現実、事実を無視した歪んだ結論になることもある。それは因果の法則で、悲惨な結果にしかならない、
 前にも書いたけど、JOCの委員の1人が延期に言及したら、委員長始め「残念だ」と言ったという。現実を無視した精神論であり、私は「軍隊だ」と書いた。こんなことが続くようなら、本当に日本は民主主義なのか疑問だ。
 想像だけど、体を鍛え勝負に勝つことを突き詰めていくと「軍隊」に行き着くのだろうね。そして、日本のスポーツというか体育は、軍隊の訓練をベースにこれまでやってきたのだろうね。他に体を鍛え勝負に勝つ方法を知らなかったんだろう。
 でも、もういい加減にやめたらどうですか?いつまで戦争中のことを引きずってるんですか?まあ当事者はそんな意識はないのだろうけど、「無意識にそうなっている」ことが怖い。
 坐禅して本来の面目、もっと強く言えば「正気」にならないといけないと思いますが。