正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十六

 岩波文庫89、90ページ「しかあれば、緒無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道(どう)、ひさしく再三撈摝(ろうろく)すべし、まさに撈波子(ろうぼす)に力量あるべきなり」
 であるから、色々な「無」というものが仏教の中には出てくるけれども、無については無仏性の無について学ぶべきである。六祖のおっしゃる「人有南北、仏性無南北」の言葉を何回も繰返し繰返しすくいとるようにして考えねばならない。また、そうすることができる力量がなければならない。
 無というのは、言葉では言い表せない何かであり、有るとか無いとか、つべこべいうレベルを超えた素晴らしいもの、本質のこと。これは=仏性である。仏性=悉有=一切衆生である。現実そのもの。
 仏教は現実をどうするかということを指し示すものと思っている。
 仏性を神秘的なものとしてしまって、非現実的なことを、あれこれやってみても時間の無駄だと思っている。
 仏教は神秘的なものでは絶対にないと信じている。
 「無」「無」「無」なんて言って、無が、神秘的な境地、難行苦行の末にたどり着く、現実とは別次元のものであるかのように言う人たちがいるが、正法眼蔵を読めば、間違っていることがわかる。
 時々、輪廻転生(りんねてんしょう、りんねてんせい)なんて言葉を見聞きするけれど、私にはどうでもいい、少なくとも道元禅師は重要なこととして取り上げてはおられない。
 現実の今の瞬間瞬間を生きていくのに、自分は何かの生まれ変わりだとか、次は何に生まれ変わるとか、そんなことを考えている暇はない。それに考えたところで何になるのだろうか。生も一時の位なり、死も一時の位なり、なのだ。その時その時を生きて、死ぬときは死ねばいい。
 神秘的な怪しげなことを持ち込むから、悪いことを考えて、人をたぶらかせて儲けようなんて奴が出てきてしまう。
 まあ、神秘的なこと、オカルトが好きな人はそれでいい。ただ、他人に迷惑かけてはいけません。
 他人の生まれ変わりとしか考えられない人がいるという話を聞くこともある。私は「ああ、そうですか」としか言いようがない。人間がどう生きるべきかとは関係ない話だから。少なくとも、私には関係ないこと。
 一言付け加えておくと、輪廻転生は非科学的だから、どうでもいいということではない。前にも書いたと思うけど、科学は進歩し続けている。しかし、分かっているのは大宇宙のほんの一部に過ぎないと思っている。
 科学の進歩は人類にとって必要だ。しかし、その進歩した科学を活かせるかどうかは人類次第だ。進歩した科学のために滅亡しないためには、坐禅して正しく行動できるようになるしかない。いつも同じこと言ってますけどね。でも、大事なことは何度でも言わないとね。
 コロナだって、結局どうなるかは一人一人の行動にかかっている。