正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十七

 岩波文庫90ページ「六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しづかに拈放(ねんぽう)すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙(ぜつげ)すれば南北あれども、仏性は虚融(こゆう)にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度(すいたく)するは、無分(むぶん)の愚蒙(ぐもう)なるべし。この邪解(じゃげ)を抛却(ほうきゃ)して、直須勤学(じきしゅごんがく)すべし」
 六祖がおっしゃった「人有南北、仏性無南北」という言葉を落ち着いてじっくりと取り上げて見たり、距離を置いて客観的にみたり、色々検討しなければいけない。愚かな輩が、人間は肉体という物質なので空間を占め、存在するけれど、仏性は実体がなく世界に行き渡っているから南北など関係ないと六祖がおっしゃったと考えるのは、まだ何も分かっていない愚かなものである。このような間違った考えを捨てて、直接に坐禅によって学ばなければならない。
 仏性は、悉有=一切衆生なのだから、実体のないふわふわしたものではない。だけど、仏性を霊魂みたいに考えたり、扱ったりする人は多いように思う。
 何回も書いたけど、仏教は現実をどう生きるかを扱っているもので、神秘的な訳のわからないものを崇拝したり、超能力みたいなものを身につけたりすることは仏教とは関係ないと私は思っている。
 ここで取り上げられているように「仏性は虚融」なものではない。すごく大事なことだと思う。仏教は世界を救えると私は思うけれど、仏教は徹底的な現実論、実在論である、と理解しない限り、機能しない。この点は西嶋氏の主張のとおりだと思う。
 しかし、どうもこの考え方は仏教学や宗門では、あまり受け入れられていないらしい。
 しかし、神秘性や超能力のような現実と関係ないことを主張して、苦しんだり、悩んでいる人を騙して不幸にしてしまう奴らが後を絶たないのは、仏教とは何かが、残念ながら明確になっていないからではないだろうか。
 日本の仏教界がどのような活動をしているのか知らない。だから、批判する立場にはない。けれど、正法眼蔵を読み、坐禅していると、仏教は現実の問題を解決する唯一の思想だと思う。