正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十九

 岩波文庫91ページ「しかあれば、無常のみづから無常を説著(せつぢゃ)、行著(ぎょうぢゃ)、証著(しょうぢゃ)せんは、みな無常なるべし」
 無常=仏性=悉有=一切衆生なのだから、無常つまり常に変化している現実そのものが、現実は常に変化していると説き、行動し、実践しているのだ。これらすべてが無常ということなのだ。
 無常という真理、すべてのものは常に変化し続けているという真理、その真理のもと人間は毎日毎日瞬間瞬間行動して生きている。行動することで変化が発生する。この世の中で無常ではないものはない。
 仏教というものについて、この世は苦だ、無常で儚いものだ、といようなイメージがある。私も学生時代そんなイメージを持っていた。
 しかし、そんな風に考えて、積極的に一生懸命生きるということができるだろうか?
 私は、仏教学の「苦」を勉強したことがない。けれど、正法眼蔵の中で、「この世は苦の世界だ」と書いてあるところはないと思っている。
 無常についても、ここに書いてあるように、常に変化する中で一生懸命行動していくことだとされている。
 繰り返し書くが、仏教は現実の中でどう生きて行くかを説いているものだと思っている。仏のお慈悲にすがって助けてもらうなんて受け身のものではない。神の救済なんていうことを望むものではない。自分自身がどうするかを坐禅によって、正法眼蔵を読むことによって、実践していくものだと信じている。
 ちょっと横道に逸れるけど、利得心、自分の利益、地位、プライド、他人や社会からどう評価されるかに捕らわれたら、仏教、仏道ではなくなってしまう。私もこれを振り捨てるのに、ある程度時間がかかった、今でも全くないか?と言われれば、若干引っ掛かるところがあるのは正直なところだ。ただ、幸いなこと(?)に、私は仕事の中で、組織の中では厳しい立場になることはわかっていても、「おかしいものはおかしい」と言わざるを得ない立場に何回も追い込まれた。結果として組織的には、あまり評価されてない(出世してない)けど、しかし、私自身はそれで良いと思っている。また、組織にとっても結果的には良かったと思っている。数少ないけど評価する人もいないことはない。「苦」だとか「儚い」なんて言っている暇はないのだ。