正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十

 岩波文庫91ページ「今以現自身得度者(こんいげんじしんとくどしゃ)、即現自身而為説法(そくげんじしんにいせっぽう)なり。これ仏性なり。さらに或現長法身(わくげんちょうほっしん)、或現短法身(わくげんたんほっしん)なるべし。常聖(じょうしょう)これ無常なり、常凡(じょうぼん)これ無常なり」
 最初のフレーズは、観音経(観世音菩薩普門品)がベースになっている。観世音菩薩は、相手によって様々に姿を変え説法し救済をする。これを引いて、我々は自分自身の姿を以て説法する、ということ。これは我々一人一人が瞬間瞬間行動して行くことが説法であり、救済だということ。これが仏性なのだ。背の高い人もいれば、低い人もいる。人それぞれ、その人自身として行動することで、説法し、救済している。聖人、素晴らしい人とか言っても、常に変化する。凡人だと言われていても、常に変化する。素晴らしい人だと言われていても、他人の物を盗んだ瞬間に泥棒となる。凡人だと言われていても、毎日毎日の積み重ねで社会に貢献すれば立派な人だ。人間、行動次第で何にでもなる。無常なのだ。
 ここにあるように、仏教は人それぞれが、それぞれの行動次第で変わって行くのだと教えている。極めて現実的、極めて積極的なものなのだ。
 これを現代に活かさないのはもったいなさ過ぎる。
 そして活かすためには坐禅が不可欠なのだ。