正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十一

 岩波文庫91ページ「常凡聖ならんは仏性なるべからず。小量の愚見なるべし。測度(しきたく)の管見(かんけん)なるべし。仏者小量身也(ぶっしゃしょうりょうしんや)、性者小量作也(しょうしゃしょうりょうさや)。このゆゑに六祖道取す、「無常者仏性也(無常は仏性なり)」」
 凡人は凡人で変わらない、聖人は聖人で変わらないというのは、仏性ではない。現実に存在する人間は常に変化するのだ。抽象的に頭の中で考えては駄目。もし、不変だと抽象的に考えるならば、それは愚かな狭い考え方だ。管を通して見るような狭い視野であれこれ推し測っていることだ。仏というのは、現実のこの人間の体だ(人間の体は宇宙の中ではちっぽけなもの)。仏性というものは、この小さな体で一生懸命行動することだ。だから六祖は「無常は仏性なり」と言われたのだ。
 よく「革命的」とか「これまでにない」とかいうフレーズを聞く。いつの時代にも同じようなフレーズで、新技術や新しい理論や思想が現れてきた。これからも現れる。何故なら無常なのだから。何か新しいものが現れたからと言って騒ぐことはない。無常という真理の下、当然のことが起こっただけのこと。
 問題なのは、それを受けて、どう行動するかということ。結局のところ、坐禅して大宇宙の真理に照らして、行動するしかない。
 とにかく現実、事実をよくよく見て、それを理解しなければいけない。現実、事実は色んな立場の人や組織が複雑怪奇に絡みあっているから、それを読み解くのは、大変だ。この作業は地べたを這いつくばって、地道に一つ一つ積み上げていくしかない。そのためには坐禅が必要だけどね。
 この、いわゆる「現場」をどこまで、把握、理解できるか、それも自分の利得とか見栄を捨ててできるかが、ものごとの成否を決めると思っている。
 新しいものが現れるのは、当たり前のことなのだから、いちいち大騒ぎすることはない。現実、事実をよく見て、その新しいものが有用なのか、判断すればいいだけのこと。
 坐禅していると、しみじみ、そう感じるんだけどねぇ。
 「これに乗り遅れると大変なことになりますよ!」なんて言われて、あたふたお金を巻き上げられないようにしないといけませんね。