正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十三

 岩波文庫91、92ページ「しかあれば、草木叢林(そうもくそうりん)の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心(にんもつしんじん)の無常なる、これ仏性なり。国土山河(こくどせんが)の無常なる、これ仏性なるによりてなり」
 (常者未転などと観念論を振り回しても意味はないのだから)現実に存在する草や木や寺院が常に変化しているということが、すまわち仏性なのだ。人間、その身心が常に変化している、このことが仏性なのだ。周りの大自然、山も川も常に変化しているということ、これは大自然そのものが仏性であるからなのだ。
 仏性=悉有=一切衆生なのだから、大宇宙のすべては常に変化している。
 だから、悟りを開いたとか言って、もう完成品で何も困らないなんてことはない。完成なんてないんだから。常に変化するのだから。
 うまくいかないときは、坐禅して「今はうまくいかないなあ」と感じればいいと思っている。頭の中の観念に振り回されなければ、今の状態を受け入れて、そして、どうするか、本来の面目に立ち返って判断できると思っている。
 最悪なのは、うまくいかない時に、今の状態を素直に受け入れず、保身、プライド、見栄のために、あれこれ言を弄する、他に責任転嫁するなど、足掻くこと。
 無常なんだから、色々あっていいじゃないか。
 坐禅して、本来の面目に立ち返って、大宇宙の真理に従って行動すればいい。坐禅すれば、おかしなことはできなくなるよ。