正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十四

 岩波文庫92ページ「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)これ仏性なるがゆゑに無常なり。大般涅槃(だいはつねはん)これ無常なるがゆゑに仏性なり」
 阿耨多羅三藐三菩提は、無上正等正覚とか言われたりするらしいけど、西嶋氏は「最高で均衡のとれた正しい真実」とされている。阿耨多羅三藐三菩提は仏性、仏の本質であるから、常に変化している。(仏性=無常だから)大般涅槃とは釈尊が亡くなったことと西嶋氏は書いておられる。水野氏の脚注では「仏の寂静のさとり」とされている。涅槃というのは、静かな境地のことらしい。釈尊が亡くなったのも常に変化しているなかのこと、どんな静かな境地であろうと常に変化している、だから仏性なのだ。
 仏教では「完成したからもう大丈夫」なんてことはない。すべてのことが常に変化しているのだ。阿耨多羅三藐三菩提なんてすごい言葉だけど、これも常に変化しているのだ。
 何回も書くけど、仏教は現実を相手にしていると思っている。だから、常に変化している現実に対して、常に変化している自分自身がどう生きていくのかを説いているのだ。
 このことは、坐禅してみると、体全体、心身で受け止めることができる。
 悟り開いちゃったからもう何があっても全然平気さ!なんて言っているのは、無邪気なお馬鹿さんだと思うよ。
 どうも、この世の中、威張って、でかい声で、断定的に言い切る人が、評価されて偉くなっているような気がする。なんか嫌だな、と感じる。
 普通の声で、普通の態度で、淡々と話す人が、(当然、話の内容は重要だけど)もっと評価されないといけないんじゃないだろうか?
 普通であることが、尊いことであるという当たり前のことが、社会の基本的なあり方になって欲しいと思う。
 坐禅は、普通の人になること。そして普通とは大宇宙の真理に従って生きるということなのだから。