正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十六

 岩波文庫92、93ページは西天(インド)の第十四祖龍樹(りゅうじゅ)尊者についての話。龍樹尊者と弟子たちとのやりとりが書いてある。引用すると長くなるので、道元禅師が解説されている95ページのところから始めることにする。
 「しるべし、真箇(しんこ)の「用辯(ようべん、説法のこと)」は「声色(しょうしき)」の即現(そくげん)にあらず。真箇の「説法」は「無其形(むごぎょう)」なり。尊者(龍樹尊者)かつてひろく仏性を為説(いせつ)する、不可数量(ふかしゅりょう)なり。いまはしばらく一隅を略挙(りゃくこ)するなり」
 これは龍樹尊者の偈(げ、詩のこと)を受けている。この偈は「身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯非声色」というもの。この偈の「説法」以下のところを解説されている。
 知らなければいけない。本当の、真実の説法というのは、頭の中の観念や感覚(声色)としてのものではない。具体的な形、こういうことが説法だというものでもない。尊者は数限りなく仏性を説いてこられた、今ここに一つの例を示すものだ。
 ここのところは、龍樹尊者が坐禅の姿を示した、このことが説法なのだということだと思っている。
 坐禅なくして仏教なしというより、坐禅が仏教なのだ。坐禅は観念ではないし、坐禅の姿勢はこうするというのはあるけれども、坐禅の中身はこうだ、と固定することはできない。坐禅は具体的な行動なのだから。このあと、道元禅師の解説が続くことになる。
 話は横道にそれるけど、コロナと宗教について、気になることがあった。韓国で宗教の集まりで感染が拡がったり、ユダヤ教の一派が国の指導を無視して礼拝をして感染が拡がったという。宗教は信仰、つまり信じることがなければ、宗教ではない。私が坐禅坐禅というのは、坐禅を信じているからだ。
 しかし、信じるといっても、伝染病の危険を犯すというのはいかがなものだろうか?本人だけではなく、関係ない人にも危険が及んでしまう。しかし、上記の人たちにとっては、信仰が唯一無二の存在なのだろう。
 このような点では、宗教には危険な側面があることも認識しておいた方がよさそうだ。