正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十

 岩波文庫96ページ「大にあらず小にあらざらん正当恁麼時(しょうとういんもじ)の道取に罣礙(けいげ)せられん道理、いま聴取(ちんしゅ)するがごとく思量なる聴取を使得(すて)するがゆゑに」
 仏性が大でも小でもない、まさにその時の言葉によって言い表された道理は、今聞いた通り考えるということであって、聞くということと思量するというのは同じである。
 坐禅しなければ正法眼蔵は理解できないと以前書いたが(澤木氏も西嶋氏が書いておられる通り)、ここのところは典型的なところだと思う。
 坐禅しているときは、坐禅しているのであって、大きいとか小さいとか関係ない。大宇宙の中で自分はちっぽけな存在でもあるし、大宇宙と一体(澤木氏のいう宇宙とぶっ続き)という意味では広大無辺でもある。まさに、そのような状態では、聞くことと思量することは同じこととなる。これは坐禅していない人には説明するのが、とても難しい。
 坐禅していなくても、話を聞いた瞬間「そうだそのとおりだ」と感じたことは誰でもあるのではないだろうか。
 坐禅している心身では、間違ったことを言われたら、「あ、これはおかしいな」とか、正しいことについては「これは間違ってないな」と瞬間に感じられる。
 この頃、世間でわーわー言っている人たちの言葉が、煩わしく聞こえてしまう。「この人は何のためにしゃべっているんだろう?これで何かが何とかなると思ってるんだろうか?」と感じることが多い。
 目立つことなく、事実に向かい合って、地道に普通にきちんと生きること、これなくして、個人の人生も、社会も成り立たないと思うけどねえ。しゃべりたがり、目立ちたがりの人たちが多すぎないですか?