正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十八

 岩波文庫95ページ「(「汝欲見仏性、先須徐我慢」の解説の続き)」「我(が)もひとつにあらず、「慢」も多般なり、除法また万差(ばんしゃ)なるべし。しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩(げんけんもくと)にならふべし」
 「我」といっても、それぞれ色々であって1つではない。「慢」といっても、これも色々である。そして、「我」や「慢」を取り除く方法もそれぞれにたくさんある。これらのことがすべて仏性である。これは特殊、特別なことではなく、普通にものを見るのと同じである。
 何回も書くけど、仏教は現実においてどう生きていくのかを説いているものだから、「我」も「慢」も無数にある、人それぞれ、1人の人間だって瞬間瞬間「我」「慢」は変化している。水野氏の脚注では俱舍論(ぐしゃろん)、唯識論(ゆいしきろん)で、七慢、九慢が説かれているそうな。唯識はちょっと読んでみたけど、私にはよくわからなかった。けど、我も慢も沢山あるというのは、現実に沢山あるのは経験上もわかる。
 さらに我慢をのぞく方法も色々だ。その人のその瞬間での方法なのだから。人間はそれができる。
 このように色々沢山あるけれど、すべて仏性を見ること、この心身に仏性を現すこと。「こうすれば功徳がある」とか「こうしないから不幸なのだ」なんて、1つのやり方を押し付けるのは、「商売」であって、仏教ではないと私は信じている。
 沢山の色々なことがある、というのは普通のこと。眼見目覩(げんけんもくと)というのは、普通にものを見ることだそうだ。普通にものを見て、普通に行動すればいい。勿論、坐禅したうえでのことだけれど。
 コロナの緊急事態宣言を巡って、色んな人が色んなことを言っている。まさに「我もひとつにあらず、慢も多般なり」だ。色々な立場の人たちが、それぞれに主張しているのだろう。正確な情報を特定するのだって大変だろう。その中で政治家、国のトップや自治体のトップは決断しなければならないのだから、大変だろう。何をやっても批判する人は批判するし。
 結局、一般人は感染拡大しないように、できるだけ動き回らないくらいしかできないような気がする。
 無常なのだから、状態は変化する。しばらくは感染者は増えると考えるのが、普通なんじゃないか。けど、どこかでピークになって減少する。歴史上の伝染病はみなそうだった。国が何かすると言ったって、やれることは限られているし、完全な方法なんてないだろう。批判できる社会であるべきだが、一方で批判なら何とでも言えるとも感じる。
 自分自身のことは自分自身で始末するしかない。勿論、国など行政に訴えることも重要だ。しかし、それが「慢」でないか、わからなければいけないとも思う。
 坐禅しましょう。