正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その七十九

 岩波文庫95、96ページ「「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸(れいしょ)することなかれ。偏枯(へんこ)に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。」
 龍樹尊者は「仏性非大非小」等とおっしゃったが、これを一般的な人たちの考え方や声聞乗や縁覚乗、理屈や感覚で仏教を学ぼうとする人たちに倣うようなことをしてはいけない。どうしようもなく偏って、仏性は広大なものだとだけ思っているのは、間違った考えを蓄えてきてしまっているのだ。
 龍樹尊者は「仏性非大非小、非広非狭、無福無報、不死不生」とおっしゃった、その一番目を取り上げておられる。要は、人間の小さな頭の中で、大きいとか小さいとか広いとか狭いとか幸福だとか果報だとか生まれるとかなくなる(滅する)というように観念的、抽象的にとらえてはいけない、ということ。仏性=悉有=一切衆生であるのだから、単純に言葉では言い表せないということだと思っている。
 仏性というと、何か神秘的なもののように思って広大なものだというのは、どうしようもない偏った考え方で、このような間違った考えことがずっと続いてきているのだ、と説かれている。
 とにかく、仏教から神秘的な匂いを完全に取り除くべきだと私は思う。現実は生身の自分自身が受け止めて処理するしかない。どう処理したらよいかは、坐禅して正法眼蔵を読めば、自ずから現れてくると私は信じている。人生の中で直面する様々な出来事が1つの方法で解決できるはずがない。
 宗教に神秘性を持たせ、それにすがらせる。私はそういうものは、受け入れられない。勿論、それで幸せなら、私がとやかくいう話ではない。信教の自由は保障されているのだから。