正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十二

 岩波文庫96ページ「身(しん)と現(げん)とに転疎(てんそ)なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。愚者おもはく、尊者かりに化身(けしん)を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承(そうじょう)せざる儻類(とうるい)の邪念なり」
 この身、肉体と現実、現実と仏性、は同じもの、身と仏性との関係がわかっていないのは、円月相がわかっていないというだけでなく、過去に真理を得た人たちつまり仏と同じ状態になっていないということである。愚かな人たちは、龍樹尊者が、現実の肉体の姿ではなく化身というような神秘的な姿を現したことを円月相というと思っているのは、仏道を受け継いでいない、間違った者たちの邪念である。
 坐禅した瞬間に仏になる。この体で仏を現している。ある意味、このことが坐禅のすべてだと思っている。
 坐禅したら、ものすごい存在になるのではない。この龍樹尊者のエピソードでも、龍樹尊者は坐禅したのであって、坐禅は仏になるのだから、何も欠けたところのない完全な姿を示した、それを円月相と表現しただけのこと。
 それを、神秘性を持たせた話にするのは邪念だと、道元禅師は説かれている。
 ここは、非常に重要だと思う。仏教は、現実なんだ。普通のことが普通にできるという当たり前のことを説いている。そのためには坐禅しなければならない。
 神秘性をまといたがるのは、商売のためだと思っている。「普通になれますよ」ではお金取りにくいからね。
 ただ、坐禅の姿というのはバランスのとれたきれいな姿だと思う。スポーツでも、素晴らしいプレーをした選手の姿は無駄がなく合理的でバランスがとれている。それを見た人が美しいと感動するのと、坐禅の姿の美しさは同じことだと私は思っている。