正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十六

 岩波文庫97ページ「「以表」するがゆゑに諸仏体を透脱(とうとつ)す。しかあるがゆゑに、仏辺(ぶっぺん)にかゝはれず。仏性の「満月」を「形如(ぎょうにょ)」する「虚明(こめい)」ありとも、「円月相」を排列(はいれつ)するにあらず」」
 (諸仏体、真理を体得した人たち)と同じ姿(坐禅)をしているのだから、そのことを諸仏体であるという必要もない。そういうことであるから、仏であるとかないとかいうことすら関係ない(ただ現実があるだけ)。仏性を満月というものに例えて、その例えは、仏性というものは言葉では言い表せないけれども明らかに存在する、ということではあるが、だからといって、「円月相」だと単純に言っているのではない(円月相というような言葉のことではなく、現実の姿なのだ)。
 坐禅した瞬間に仏となる。しかし、それは言葉で言い表せるような単純なものではない。しかし、大体宇宙の真理は絶対的に存在する。
 経典を抽象的、観念的に理解してはいけない。現実をどのように受け止めるか、この心身で受け止めなければならない。そのために坐禅がある。
 コロナで危機宣言が出ているのに、風俗店に行った政治家がいたという。私は、政治家が清廉潔白でなければならないとは思わない。そりゃ犯罪を犯してはいけないけど、風俗行こうが、大酒飲もうが、ギャンブル好きだろうが、ちゃんと政治をやってくれればいいと思う。
 大体、国民の中で清廉潔白な人なんて、ほとんどいないんじゃないのかな?それなのに政治家だけが清廉潔白なんてことは、あり得ないと思えて仕方がない。
 今回の場合は、感染拡大を防ごうとしているのに、感染拡大する行為をしてしまったことが、お馬鹿さんということなんだろう。
 私なりの仏教の理解で言えば、人に知られようが知られまいが、間違ったことをした瞬間に、その人はお馬鹿さんであり、場合によっては犯罪者となるということ。この場合の犯罪者は逮捕、起訴されるという法的な犯罪者ではないけど、犯罪者以外の何者でもないということ。
 人に知られなければ大丈夫なんてことはない。その瞬間、大宇宙の真理に背いたのだから、その結果は遅かれ早かれ現実に現れる。
 逆に、人に知られたい知られたいと必死になっているのは、知られなきゃいいと思っている態度と裏腹なもので、同じものだと思う。
 自分の行動の基準、評価の基準は自分の内側にあり、外側にはない。その内側の基準は坐禅によって心身で受け止める大宇宙の真理だ。そう信じている。