正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その八十九

 岩波文庫98ページ「即隠(そくおん)、即現(そくげん)は、輪相(りんそう)の進歩退歩なり。「複於座上現自在身(ぶおざじょうげんじざいしん)」の正当恁麼時(しょうとういんもじ)は、「一切衆会、唯聞法音(いっさいしゅえ、ゆいもんほうおん)」するなり。「不覩師相(ふとしそう)」なるなり」
 龍樹尊者の姿が見えなくなった(隠れた)り、見えるようになった(現れた)りしたというのは、龍樹尊者の説法を聞いている人によって、色々に見えた、感じたということである。また、龍樹尊者の姿が現れたという正にその時には、そこにいた全ての人たちが説法の声を聞いていただけということである。説法を聞く時には、その姿を見なくてよいということである。
 私は、ここも神秘性の否定と思っている。龍樹尊者の姿が消えたり、現れたり、人々には見えなくなる、という、「超常現象」みたいなものではない。龍樹尊者の姿は見る人によって色々に見えるだろうし、説法を一生懸命聞いている時は、姿を見ていなくたっていい。このように、当たり前、普通のことだと道元禅師は解説されていると思っている。大体、姿を消したりできたからと言って、それに何の意味があるのだろう?
 私は、坐禅して、現実、事実に徹底して生きていきたい。苦しかろうと辛かろうと痛かろうと、それが現実なら受け入れて向き合うしかない。敢えて苦しみたいとは思わないけど、現実からは逃げようがない。
 コロナについて、政治はできる限り多くの人を救い、生活を守ってもらいたい。けど、一方で政治にできることは限界があり、全て政治にお任せできることはないと思っている。
 これまでにない伝染病なら、一定数の感染者が出て、一定数の死者が出るのは現実として不可避だろう。国の将来のために、どこで食い止められるかしかないと思っている。だから、訳の分からない政治家だとか評論家だとかが、「だからどうしたいの?何が現実にできるの?」というようなことを喋り散らしているのを聞くとげんなりするし正直「馬鹿な人だなぁ」と思う。
 私自身、自宅勤務になっている。発熱なし、咳もないけど、疲労感が結構ある。生活リズムが変わって、それなりにストレスのかかる仕事だから、そのせいかな、とは思っている。けれど、検査を受けている訳ではないから、家からは極力出ないようにしている。
 在宅できない仕事の人たちの無事は祈るしかできない。
 目の前の現実、事実に対し、自分のできる限りのことをするしかない。坐禅しながら。