正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十ニ

 岩波文庫98ページ「龍樹未廻心(みういしん)のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣(しゃけん)しきたれり。龍樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡(しょうちゃく)として、大法眼蔵(だいほうげんぞう)を正伝す。これ無上仏道の単伝なり」
 龍樹尊者が仏道、仏教に転向する前、仏教以外の教えの中にいたときに弟子はたくさんいたけれど、仏教に転向して、全ての弟子たちと別れた。龍樹尊者が仏(真理を体得、一体となった人)となったときは、迦那提婆尊者を教えを伝える正当な後継ぎとして、大宇宙の真理を伝えた。これが最高の釈尊の教えが正当にまっすぐに伝えられたということである。
 ここは、龍樹尊者から迦那提婆尊者に伝わったものが、釈尊の教えである、ということをはっきりさせておきたいということで、道元禅師が書かれたと思う。
 何回も書いているけど、経典は膨大で、その一部を上手く利用して、「自分は○○尊者の教えを理解した。伝えられた」なんて言って商売している人は一杯いると思う。
 道元禅師の正法眼蔵についても、中々難しいところもあるから、それをいいことに、とんでもない、道元禅師がお聞きになったらびっくり仰天するようなことを言っている人もいる。
 宗教は信じなければいけない。私が坐禅正法眼蔵を信じているように。もし、間違ったものを信じてしまったら、これは怖い。だから、何が正しいのか、よくよく見極めないといけない。どうすればいいか。徹底的に疑うことから始めるのがいいように思う。私は、流行しているもの、周りの人たちが信じているものは「なんとなく嫌だな」と感じるので、距離を取って生きてきた。その中で正法眼蔵だけは信じられた。
 最初の頃書いたように、坊さんに不信感、不快感があったりしたこともあるだろうし、対人恐怖気味でそもそも人に対して警戒感が強いこともあるだろう。
 何を信じるかは、個人個人が自分の責任で決めなければいけない。だから、私は坐禅を信じるけど、他の人がどうするかは関知しない。
 1つ付け加えておくと、坐禅すれば仏と書いてきた。このことと、仏教を伝える後継者の選定は別の話と考えている。多くの衆生を救うためには、教団が必要だろうし、その教団の運営の能力を持っている人が必要だろう。
 永平寺にしても、永平道元→孤雲懐弉(えじょう)→徹通義介(てっつうぎかい)→孤雲懐弉と変遷している。孤雲懐弉が二回永平寺のトップに立っているのは徹通義介がまとめ切れなかったということらしい。道元禅師は徹通義介について「優秀だが老婆心に欠ける」と評していたという。
 これは寺の運営の話で、坐禅すれば仏であることとは関係ない話だと思っている。