正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十
岩波文庫98ページ「尊者の嫡嗣迦那提婆尊者(ちゃくしかなだいばそんじゃ)、あきらかに満月相(まんがっそう)を「識此(しきし)」し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり」
識此とは、西嶋氏によると「具体的に知る」ということだそうだ。そうすると、ここのところは、龍樹尊者を継いだ迦那提婆尊者は、間違いなく満月相とはなにかを具体的に知り、円月相を具体的に知り、身現とはなにかを具体的に知り、仏性とはなにかを具体的に知り、仏体とはなにかを具体的に知っておられたのだ、ということになる。
この「具体的に知る」というのは当たり前のことだけれど、案外、本当に具体的に知らずに、偉そうに話したり、振る舞ったりしている人は多いと思っている。
人の話を聞いたり、本を読んだりして分かったような態度をとってはいけないよ、と思う。
澤木興道氏が言っておられるが、饅頭とは何かは百万言を費やしても伝えられないが、饅頭を一口食べれば一瞬にして分かる。
坐禅についても、言葉では説明できない。実際にやるしかない。
全てのことを体験できないのは当たり前。だから、体験していないから、本当のところはわからないということを自覚してもらいたいなぁと思う。だけどね、「自分はすごい」と思っている人は、中々、「自分は本当のところは分かっていない」と認めないというか、分からないんですよね。
知識がたくさんあることだけでは、駄目なんですよ。
坐禅していると、しみじみそう感じるんだけどね。