正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十五

 岩波文庫99ページ「迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会(しゅえ)につげていはく、「此是尊者、現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如満月。仏性之義、廓然虚明(此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以って我等に示すなり。何を以ってか之れを知る。蓋し、無相三昧は形満月(かたちまんげつ)の如くなるを以ってなり。仏性の義は、廓然(かくねん)として虚明(こめい))なり。」」
 迦那提婆尊者が、龍樹尊者の姿について人々に告げておっしゃった。龍樹尊者は仏性とはどのような姿かを我等に示された。何故そうだと分かるのか。何故なら、坐禅の姿(無相三昧)は満月のようなものだからである。仏性とは何かは、明確に目の前に広がっている現実であるからだ。
 満月のようなもの、というのは何も欠けたところのないもの。仏性は、言葉であれこれ言うことのできない、目の前の現実そのもの(廓然虚明)。
 道元禅師は繰り返し繰り返し、神秘性を否定され、坐禅を通して体得される、一体となる現実が仏性であり、仏教であると説かれていると思っている。実際の現実の姿そのものが仏性なのだ。
 現実は現実として明々白々として目の前にあるのに、人間が欲望とか、見栄とか、思想とか、地位とかによって、現実が見えなくなる。
 組織でもよくあること。ただ、これを正すのはとても難しい。特に経営陣が現実を見間違えている場合、それは違うとは中々できない。しかし間違いは間違った結果(失敗)にしかならない。経営陣、特にトップの責任は重いと同時に従業員にも適切な判断がなければいけないと思う。従業員の立場で何ができるかは、難しいところもあるけれど、考えようによっては経営陣より自由とも言えるんじゃないだろうか。
 現実をしっかりつかむ、坐禅なしには至難の技、というか無理だと、私は思っている。
 報道を見たり、読んだりして、それを直ちに現実だと思ってはいけないと思っている。現代において、事実をどうつかむか、慎重に考えないと、危ないことになると思う。
 仏性は現実そのものなのだ。そしてそれは坐禅をすれば明々白々なのだ。