正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十七

 岩波文庫100ページ「祖師のをしむにあらざれども、眼耳(げんに)ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別(りょうべつ)することあたはざるなり。無相三昧の形如満月(ぎょうにょまんげつ)なるを望見(もうけん)し礼拝(らいはい)するに、「目未所覩(もくしょみと)」なり。「仏性之義(ぶっしょうしぎ)、廓然虚明(かくねんこめい)」なり」
 仏教を正しく伝えられた人(祖師)は正しい教えを伝えることを惜しむなどということはないが、教えを受ける側が目や耳をふさいでしまっているから、伝わらないのだ。身体が大宇宙と一体になっていない(坐禅していない)から、正しい教えであるということが分からないのである。だから坐禅している姿(状態)は満月のように何も欠けていない完全なものであり、それを見たり、礼拝したとしても、目の前の姿を見れていないということになってしまうのだ。仏性とは何かといえば、明々白々として明らかなのである。
 人に正しく物事を伝えるというのは至難の技というのは、誰でも経験していると思う。「ええっ!どうしてそうなるの!?」というのは、よくある。伝えた側では、他に解釈しようがないと思っていても、驚くべき受け止め方をする人をゼロにすることはできない。
 本当の真意は伝わっていないけど、目標を阻害しないから、まあいいかということも少なからずある。
 特に、地位や権力のある人に「あなた、それ間違ってますよ」と言って、聞き入れられることは、ほとんど期待できない。道元禅師が利得を最も嫌われたのは、利得が一番人間をおかしくする、狂わせるからだと思う。
 政治家の論争(口喧嘩)は、残念ながら、自分が正しいと信じこんだ者同士の罵りあいがほとんどのように見える。とても残念。
 思想に凝り固まっている人も同様だ。「そりゃおかしいでしょ」と言っても、怒られたり、恨まれたりする。
 正法眼蔵は、哲学書ではない。仏教をどう理解し、どう行動すればよいかを説かれた布教のための書物だ。
 現実の中で何が大宇宙の真理なのか、体得し、一体となるためには、坐禅という行動が必要なのだ。
 そして一人一人の行動の積み重ねだけが世の中を変えられる。批判は多いにすべきだ。しかし、現実にどのようにするのか、そこがないと、ただ言うだけのこと。幸い、日本は民主主義の国なのだから、一人一人の積み重ねの上で選挙が行われ、より良い政治が行われる可能性がある。
 より良いものは日常の一つ一つの行動からしか生まれない。その結果として国家の運営もより良いものになる。おかしな行動をする国民がたくさんいるのに、素晴らしい政治が行われる、そんなことはどう考えたってあり得ない。
 私はそう考えている。