正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その九十九

 岩波文庫100ページ「四大五蘊(しだいごうん)と道取し会取(ういしゅ)する仏量祖量も、かへりて身現の造次(ぞうじ)なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり」
 四大というのは、地、水、火、風(ち、すい、か、ふう)のことで、この世界の構成要素(西嶋氏は、地は固体、水は液体、火は化学反応、風は気体と説明しておられたと思う)。
 五蘊も同じくこの世界の構成要素で、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)のこと。西嶋氏の解説では(私の理解なので正確ではないかもしれない)、色(物質)を感覚で受ける(受)、すると色々な考え、想念が生まれる(想)、その考えによって行動を起こす(行)、その結果を受けて新たに意識が生まれる(識)ということのようだったと思う。
 これらの世界の構成要素、四大五蘊を説いたり、理解したりする力量も、この瞬間の現実のこの身体の状態から生まれてくるのだ。大宇宙の真理を体得した人たちの姿というのは、現実の肉体であるのだから、この世界そのものも、現実の姿そのものなのだ(頭の中であれこれひねくり回すものではない)。
 仏教の用語がある。ここの四大五蘊もそうだ。私は澤木興道氏や西嶋氏の提唱から主に「こういうものか」と理解してきた。仏教用語辞典とかWikipediaなんかも見はするが、ちんぷんかんぷんで、分からない。ちゃんと学問として勉強してないし、馬鹿なのかもね。
 ただ、生きていく上で「なるほど、そう理解するのか」というものでなければ、少なくとも、私には不必要。世の中には、色んな知識があり、難しい用語を使う人がいる。何だか分からんけど凄い人みたいだなんて尊敬されちゃったりする。
 けれど、本当に大事なこと、多くの人に分かってもらう必要があることは、平易な言葉で、丁寧に伝えるべきだ。本当に能力があり、専門的に深く理解していれば、容易に出きるはずだ。できないとしたら、見せかけのメッキで誤魔化しているだけだ。
 そういう人はかなり多いと思っている。
 私が昔命じられた仕事があって、私はその分野では素人にも関わらず、メーカー選定の役割をやらされたことがある。やらせる方もどうかと思うが仕方ない。(その分野の書籍は1冊だけ読んだけど、よく分からなかったね)メーカーの営業担当は、専門用語を使ってペラペラしゃべる。
 各社の説明を一応一通り聞いた上で、私は各社に宣言した「私は素人だ。しかし、選定の責任者だ。素人の私が納得、理解できる説明ができない会社は専門的能力が劣るので、本質的な説明ができないとみなす」。
 そうしたら、次回からは、管理職クラスの技術者を連れて説明にくるようになった。その説明は非常によくわかった。
 見栄張ってわかったような振りをしなくて良かった。
 現実に理解できない自分を、ありのままに認めることができたことが良かった。「蘊処界のかくのごとくなるなり」坐禅のおかげだと思っている。