正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百一

 岩波文庫101ページ「しかあるに、龍樹、提婆師資(しし)よりのち、三国の諸方にある前代後代(ぜんだいこうだい)、まゝに仏学する人物、いまだ龍樹、提婆のごとく道取せず。いくばくかの経師論師(きょうじろんじ)等か、仏祖の道(どう)を蹉過(さこ)する。」
 (仏の本質は、この瞬間に姿を現しているという現実であるのに)、龍樹尊者、提婆尊者の師弟より後のインド、中国、日本の様々なところの色々な時代の仏教を学ぶ人々は、龍樹尊者や提婆尊者のように言っていない。どれくらいたくさんの経典だけ読んでいる人や言葉の上での議論ばかりしている人が大宇宙の真理を体得した人の言葉を踏み違えて、誤ってきたことであろうか。
 道元禅師は仏教とは何かについて確信しておられたから、痛烈なことを説いておられる。真の仏教を理解している者がいないとおっしゃっておられる。
 私は道元禅師を絶対的に信じるが、他人に対してこのように言うことは、とてもできない。ただ、そういう立場に置かれるなら、道元禅師を信じるとしか言えない。
 私は遅かれ早かれ死ぬ訳なので、色々身辺を片付けたり、死後できるだけ迷惑かけないように準備をしている。案外厄介なのは寺なんですよね。私は仏教教団に期待はしている。しかし、私にとって今の寺は生きていく上でどうでもよいものでしかない。色んな名目で、金銭的な関係はあるけど、それは寺の経営の話でしかない。どう対処するか思案中だ。面倒なのも嫌だしね。
 現実の中で瞬間瞬間どう行動すべきかというのは、今のコロナ対策でも根本的なこと。私が知らないだけなのかもしれないけど、仏教としてメッセージを出したらよいのにとは思うんだけど。出しているのかな?出しているなら、私がお馬鹿なので、謝ります。ごめんなさい。