正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二

 岩波文庫101ページ「大宋国むかしよりこの因縁を画(が)せんとするに、身に画(が)し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡(にょきょう)なる一輪相を図(ず)して、いま龍樹の身現円月相とせり」
 偉大な宋の国でこの龍樹尊者と提婆尊者に関する話(因縁)を絵に描こうとする場合に、自身の体で描こう、心で描こう、現実の空間において描こう、壁に向かって行う坐禅によって描こうとすることができず、むなしく筆先でもって説法する座の上に鏡のような一つの輪を描いて、これが龍樹尊者の「身現円月相」だなどとしている。
 言葉のことで書いておきたい。「因縁」を西嶋氏は、説話とか物語とされていると思っている。私なりには、原因があってそれに付随して色々なことが起こることだから、因縁なのだと思っている。「悪い因縁のため不幸に見舞われている」というようなオカルトのような言葉とは思っていない。
 また「壁に画する」は、坐禅は壁に向かってするものだから、坐禅の状態のこと。(臨済宗では壁に背を向けて坐禅するらしいけど、私は道元禅師のお書きになったことが絶対なので)
 円月相は現実の坐禅の姿、だから坐禅している身体、坐禅しているときの心、坐禅している空間、実際に壁に向かってしている坐禅、これらが「円月相を画す」ことなのだ。よく、仏画で仏とされている人の後ろに丸く光が描かれているけど、道元禅師は、そんなものは円月相ではないとされている。
 まあ美術品として見るんならいいんだろうね。私は、素晴らしい絵とか音楽などは、言葉では言い表せない大宇宙の真理に通じるものだと思っている。だから、人の心を打つのだろう。そういう意味で観賞するならいいけど、身現円月相は、そのような絵のことではない。
 円月相とは、心身が正しい状態にあること、つまり坐禅および坐禅したあとの心身だと思う。正しいものは美しい。論文でも、ビジネスのレポートや企画書でも正しいものは、美しさを感じる。
 今のコロナを巡っての対応のなかには、美しくない、何か嫌だなと感じるものもかなりある。それは誤っているからだと思う。ただ、うわべは美しく思えても見せかけのものもある。真に美しいものか否かは、坐禅した心身でなければ分からないと私は思っている。坐禅なしに、何か事が起こる度に、あたふた、わーわー、良いだの悪いだの、あれこれ言ったりやったりしていたら変な方向に行ってしまうと思う。
 坐禅しませんか?