正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百五

 岩波文庫102ページ「しるべし、身現円月相の相を画(が)せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目(ようみしゅんもく)それ端直(たんじき)なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐(ごつざ)するべきなり。破顔微笑(はがんみしょう)つたはるべし。作仏作祖(さぶつさそ)するがゆゑに」
 知らねばならない。「身現円月相」を描こうとする、ためには、坐禅してその姿を現せばよい。その時には、眉を動かすとか、まばたきすることも端正なものとなる。私たちの肉体(皮肉骨髄)が正法眼蔵であり、それは坐禅(兀坐)によって現れる。釈尊が蓮華の花を示したとき、摩訶迦葉(まかかしょう)尊者だけが微笑して、釈尊の教えが伝わったのも坐禅によるのである。坐禅とは仏になり、仏祖になることであるからだ。
 身現円月相を一輪の輪を描いて示す何てことは絵に描いた餅(画餅)だ。ただ、ひたすら坐禅するだけでよい。
 現代って、「自分が自分が」としやしゃり出てくる人が多いと感じる。そうした方が得なのかな?勿論、主張すべきは主張すべきだけど、そんなに大きな声で言わなくてもいいんじゃない?言うだけの意味があるの?と思うことも多い。
 メディアに出ることで、ビジネスの宣伝になったり、組織の中で地位が上がったりもするんだろうね。涙ぐましい努力だなぁと感心するところはある。
 正直言って、コロナについて、評論家だかコメンテーターだか知らないけど、もうおしゃべりはいいよ。まぁ、最近は一切無視してるけど。
 今日の正法眼蔵の部分にあるように、正しい姿、正しい行動は美しいのだ。コロナによって美しくない人間の行動がたくさん出てきていると思う。その姿がその人間の本当の姿だ。国民の姿だ。人類の姿だ。
 自分の人生は自分で生きるしかない。自分勝手に生きろということではない。大宇宙の真理に従って自分の人生を生きるということ。それは、現実の中で、瞬間瞬間正しい行動をするということ。行政が全力を尽くすのは当然。だけど、私自身が生きるか死ぬかは、どうなるかわからん。死なないように注意するけど、死ぬときは死ぬしかない。死ぬときに、見苦しくのたうち回るかもしれない。でもそれはそれでしょうがないと思っている。
 なお、坐禅のことを兀坐とか、兀兀地(ごつごつち)と表現することがある。じっとひたすら坐禅している姿。兀とは「動かないさま。一心にものごとに打ち込むさま」だそうだ。