正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百七

 岩波文庫102、103ページ「円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現ずべし。しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、「以表」を体せず、「説法」を図せず、いたづらに画餅(わひん)一枚を図す、用作什麼(ようそしも)」
 円月相を描こうとするなら、坐禅によって欠けたところのない満月のような姿を現さねばならない。そうであるのに、現実の身体でもって坐禅することをせず、坐禅による円月を現さず、欠けたところのない姿を現さず、真理を体得した人たちの姿を現さず、現実の身体を以て行動(坐禅)せず、坐禅の心身により法を説くことをせず、無駄に絵に描いた餅を描いている。そんなことをしてどうしようというのか。
 坐禅によって正しい行動をするしかない。餅を絵に描く、観念的、抽象的にわかったような風なことを言ってなにになるのでしょうかね?そういう人が目について仕方がない。正直、うるさい。
 コロナについても、何かあれば、ことあるごとに、あーでもないこーでもないと、ぎゃあぎゃあ騒いでいる。絵に描いた餅に振り回されているとしか見えない。
 治療薬なし、ワクチンなしなら、根本的には犠牲者は不可避ではないのだろうか。その中で経済も回す。医療機関はコロナ以外の患者の治療もしなければならないし。チマチマしたことを大騒ぎして、本当に絵に描いた餅を前にして、現実には何にもならないことになってしまってないかなと思う。
 言葉でもっともらしいことを言ったって、現実を踏まえた行動ができなきゃ、どうにもならない。
 何回か書いたけど、行政も報道も、自分が生きていくために、どう利用するか、自分で判断するしかない。私は自分がどう生きるかを、自分の外側に求めたくない。
 政治家も報道機関も同じ人間なのだ。特別な存在ではない。そういう仕事をしている人たちなのだ。仕事は一生懸命やってもらわないと困る。けど、判断は私自身でする。
 坐禅して生きていきます。