正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百九

 岩波文庫103ページ「円を学するに一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅(いちまいひん)に相似(しょうす)することなかれ。身相円月身なり、形如満月形なり。一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし」
 円とは何かを学ぼうというときに、円い貨幣のようなものだと学んではいけないけど円い餅のようなものだとしてはいけない。現実に身体の姿(坐禅)を現すことが、円月身なのだ。その現実の姿は満月のように欠けたところのないものだ。このように円というものを考えて、一枚の貨幣、一枚の餅の円いということを学ぶべきである。
 現実をつかむ。当たり前のことだけど、真の現実をつかむというのは、とても難しい。私は坐禅していなければ不可能だと思っている。
 現実などわかっていると思っていると普通思うだろうけど、少なくとも私の仕事関係やプライベートの関係の中で、現実を的確に把握している人は、とても少ないと思っている。
 現実を把握していないのに、突き進んでいる。とても恐い。更に、そういうことをしていることを凄いこと、偉いことだと思っていたりする。小銭や丸餅を見て「円とは何かわかった」と言っている訳だ。
 ふと、思い出した。高校生の頃だったかな、トーマス・マンの「トニオ・クレガー」のなかに「滑稽と悲惨」という言葉があった。
 まさに、今の世の中、滑稽と悲惨、滑稽と悲惨だらけのような気がする。
 正法眼蔵読んで、坐禅しませんかねえ。