正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十三

 岩波文庫105ページ「おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解(けんげ)することさめざるによりて、有仏性(うぶっしょう)の道(どう)にも、無仏性の道(どう)にも、通達の端(たん)を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり」
 仏性を頭の中であれこれ考えることだとか精神の働きだとかと理解していることが誤りだと気付かない(目が覚めない)ことから、有仏性、無仏性とは何かを理解する端緒を失ってしまっているのだ。有仏性、無仏性とは何かを学んで理解しようとするものも稀である。
 仏教は坐禅という行動。頭の中のことではない。訳もわからず、絵に描いた餅を有り難がったりしてはいけない。
 坐禅していれば、何でも解決するなんて単純なものではない。ただ、今は苦しまなければならないときだとか、どうも胡散臭い方向に組織や社会が向かっている雰囲気だが今はじっとしていよう或は積極的に動こうとか、感じることができるのは間違いないと思う。
 坐禅していたら、何もかもわかってしまった、というのは、私には信じられないし、別にそんな風になりたいとも思わない。
 これから、どう生きるか、そんなことはわからない。ただ、死ぬときが来るまでは坐禅して生きていこうと思う。
 今の世の中の言葉沢山、頭の中の絵に描いた餅をひけらかしているのは、ちょっとうんざり。滑稽と悲惨の世の中ですね。
 なんか検事長が麻雀にお金賭けて辞任するとか。よくわからないけど、定年延長とかでつべこべ言われるので、嫌気がさしたんですかね。
 昔から、博打はお骨になるまでやめられない、とか言うから、博打が好きだったのかな?
 博打が悪なら、競馬、競輪なども悪だろうけど、こちらは、良いらしい。都合よく出来ていることだ。
 今の野党が政権を取れば、司法にも自分たちに都合のよいように振る舞うだろう。少なくとも今の人類の世界では、権力ってそういうもの。アメリカ、中国、ロシア、韓国、皆同じ。
 坐禅して、まともな人が増えない限り、変わらない。
 そういう世界になってほしいけど、無理だろうなあ。