正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十五

 岩波文庫105ページ「あるいはいふ、聴教(ちょうきょう)のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲(うんのう)はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇畜生(しんこしくさん)なり。なにといふ魔儻(まとう)の、わが仏如来の道(どう)にまじはりけがさんとするぞ」
 ある者は言う「仏の教えを聴いて学ぼうとする者は仏性とは何かを口にする。坐禅により修行しようという者は仏性とは何かなどということは口にしてはならない」。このような輩は、まさに「畜生」としかいいようがない。なんという狂った悪魔どもが、我々の釈尊の教えに交わって汚そうとすることであろうか。
 よく坐禅について語られるなかで、以心伝心とか不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉が登場する。仏教の核心は言葉では伝えられない、ということらしい。
 確かに、大宇宙の真理は言葉で簡単に表現できるものではない。だから、坐禅が必要だ。と言っても、言葉で表現しなければ、後世に伝わらない。だから、道元禅師は苦心惨憺して正法眼蔵をお書きになったのだ。
 ここのところは、言葉をおざなりにすることを戒めておられると同時に、円月相を一つの輪として画くような単なる言葉の上で理解しているような態度も戒めておられる。そんなに単純なものではない。
 SNS上で誹謗中傷され、命を絶ってしまった人がいたという。痛ましい。
 SNSがクローズアップされているけど、いじめだとか、最近で言えば「自粛警察」なんていうのも同類だろう。
 教育する、規制、罰則を強化するなど、色々あるだろう。けれど、根底にあるところは、仏教、坐禅でしか救えないと思っている。
 仏教は徹底的な楽天主義で、本来人間はおかしなことをしないもの、本来の姿を見失っているから、おかしくなってしまうと考えるものだと思っている。
 とりあえずは、規制、罰則なのかもしれないが、根底が変わらなければ、別の形で現れてくるだろう。
 坐禅して本来の面目を取り戻す、それしかないと思うけど、実現は難しいだろうなあ。