正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十六

 岩波文庫105、106ページ「聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教・参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし」
 (前回のところで、聴教のともがら、坐禅の雲衲云々と言う者たちがいるが)そもそも「聴教」という上っ面の言葉が仏道にあると言うのか、「参禅」という上っ面の言葉が仏道にあると言うのか。言葉の上だけの聴教だとか参禅というようなものは、仏道にはない、と知らなければならない。
 教えをきちんとした仏祖から聴く、坐禅をするということは重要に決まっている。ところが、これまで引用したところでは、聴教・参禅というのが、単なる「言葉」として扱われている。そんな言葉のみでもって仏道を語るなどとんでもないこと。仏道坐禅し続けながら、瞬間瞬間を一生懸命行動していくことなのだ。言葉遊びなんかしている暇などない。
 言葉だけいじり回していると、どんどんおかしくなっていくと思う。一旦言葉を発すると、次はそれ以上に強い、激しい言葉を使うようになる。SNSでの誹謗中傷で自殺してしまった人のことを考えると、おそらく間違いないと思う。
 他人の悪口をいうことは醜いことだ。相手と相対していようがいまいが、醜いことだ。それは悪としか言い様がない。
 けれど、世の中、悪口で溢れているように思えてならない。SNS上に限らない。
 大体、国会や政治家のSNS上の発言なんて悪口ばかりじゃないかと感じる。政治家はやっていいが、他は駄目と言ったって、どこで線引きするのかな?選挙で選ばれた議員がやっているのだから、そりゃ国民がやらない訳がない、というのはおかしいですかね?
 日本人はどういう国を作りたいのか、人類はどういう世界を作りたいのか?
 その根本思想は何なんだ?そして、百年後でも何でもいいけど、どう具体的に行動していくのか、そんなものはどこにもないと思っている。目の前で何か起こるとぎゃあぎやあ言ってるだけじゃないか。
 坐禅して大宇宙の真理と一体となならないとどうしようもないけど、難しいだろうなあ。でも、それじゃあ困ると思っております。