正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百十七

 岩波文庫106ページ「杭州塩官県斉安国師(こうしゅうえんがんけんせいあんこくし)は、馬祖下(ばそか)の尊宿なり。ちなみに衆(しゅ)にしめしていはく、「一切衆生有仏性(いっさいしゅじょううぶっしょう)」。いはゆる「一切衆生」の言(ごん)、すみやかに参究(さんきゅう)すべし。一切衆生、その業道依正(ごうどうえしょう)ひとつにあらず、その見(けん)まちゝなり。凡夫外道(ぼんぷげどう)、三乗五乗(さんじょう)等、おのゝなるべし」
 杭州の塩官県におられた斉安国師(塩官斉安禅師)は、馬祖道一(ばそどういつ)禅師の教えを継いだ優れた方であった。斉安禅師があるとき人々に「一切衆生有仏性」とおっしゃられた。(以下道元禅師の解説)この「一切衆生」という言葉についてすみやかによく考えなければならない。一切衆生と言っても、その行動や「依」=環境、「正」=主体・本人は、こうだと一つに決められない。その考え方はまちまちである。まだ仏道修行をしていない人々、仏道以外を信じている人々、三乗五乗など仏道修行の仕方・生き方は、様々である。
 馬祖道一禅師は六祖大鑑慧能禅師の教えを継いだ方で、正法眼蔵には度々登場する。
 三乗五乗の詳細は興味のある方は調べてみてください。
 この引用した部分は、一切衆生悉有仏性を、さらに繰り返し説かれているところだと思っている。正法眼蔵随聞記の中に、道元禅師が大事なことは繰り返し繰り返し伝えなければならないとおっしゃったという記述がある。私は、このことが強く心に残っている。重要なことは、すぐに理解されなくとも繰り返し繰り返し粘り強く話すことを心がけている。
 また、道元禅師は現実をきっちりと把握されていると思う。現実の世界には様々な人たちが様々な立場で様々なことをしている。その上で仏性についてこのあと説かれていく。
 道元禅師は根本を掴んだ上で、現実の世界を見ておられる。
 今の地球上の人類は、根本なしに、それぞれの違いについて、こっちが正しい、あちらが悪いと言い争っているように見える。人類って進歩しているんですかね。
 何か起こる度に右往左往、ぎゃあぎゃあ騒ぐだけに見えて仕方がない。
 言葉では格好いいこと言っても、現実の行動が頓珍漢なこともたくさんある。ほんとにそうだと心底思っているのか、「そんなこと現実にできるわけないじゃないか」とわかっている確信犯なのか、なんだかわかりません。
 いい加減、坐禅して落ち着きませんか?無理だろうなぁ。