正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その百二十一

 岩波文庫107ページ「いま国師の道取する宗旨(そうし)は、「一切衆生有仏性」のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、「一切諸仏有仏性也無(やむ)<一切諸仏、有仏性なりや也無(またいな)や>」。かくのごとく問取(もんしゅ)し、試験(しけん)すべきなり」
 斉安国師のおっしゃることの主旨は「一切衆生有仏性」ということのみである。衆生でないないものは有仏性ではないということになる。そこで斉安禅師に問うてみたい「すべての仏となった方々は有仏性なのか、そうではないのか」このように問い、真実は何かを質す必要がある。
 道元禅師は、仏道・仏教とは何か、真理・真実は何かについて妥協はされない。国師の言葉について、さらに追及されている。正法眼蔵の中で、有名な祖師方を批判されているところは少なくない。
 それは、道元禅師ご自身が、真の仏道を体得したという揺るぎない確信がおありだったからだろう。
 衆生が有仏性なら諸仏は有仏性なのかどうか、というのはかなり痛烈な質問だと思う。
 根本に関わることは妥協不可能だろう。しかし、根本とは何か?私は大宇宙の真理に従って生きるということだと思っているけれど、そんなこと言っても聞いてくれる人は、まあ、いないでしょうね。
 アメリカがWHOから脱退するとか、中国の香港への扱いが怪しからんから制裁してやるとか言っているようだ。アメリカとしての理屈はあるのだろう。けれど、アメリカと中国の権力闘争に見えるけど違うのかな?
 自由平等、差別はいけないと言っても、アメリカで暴動が起きている。欧米で日本人が冷たい態度をとられたという話も聞く。
 言葉、理屈でいくら言っても根本が変わらなきゃ、いつでもどこでも差別は起こる。日本でも、東日本大震災の避難者(特に子ども)へのいじめや差別、今回のコロナでも差別が起きている。
 自分は、自分は、我が国は、我が国は、と固執している限り、権力闘争は避けられない。
 今の人類のレベルはそういうものとしか思えない。繰り返し繰り返し、差別はいけない、自分のこと、自分の国のことばかり考えちゃ駄目だよと、当面は言い続けるしかないだろうけどね。
 ただ、本来、人間は差別などできないものなのだ、自分の利益にとらわれて他人を攻撃などできないものなのだ。本来の人間にたち戻るしか、本当の解決はないと思っている。そのためには、坐禅するしかない。